乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

 #27 誘拐症候群  貫井徳郎著  

  

 この1,2か月、頭の中はキジカナカジマナカジマナキジカナで、それこそ濃厚なバターを摂りすぎて胃もたれしたような状態が続いていた。

 心をぐちゃぐちゃに掻き乱される読書も、それはそれで嫌いじゃないけれど、ちょっとこの女同士の妬み嫉みに纏わる面倒臭い話から距離を置きたい。そんな思いから選んだ一冊。

 

  

 この作品では、複数の登場人物に起こる出来事が同時進行していき、やがて異なるストーリーが交わっていく。

 ミステリ小説では珍しい手法でもないが、私はこの一見関係がなさそうな点と点が時間をかけてつながっていくのを見ることに快感を覚える。

 

 なんとなく、小学生の頃にやった「あぶりだし」を思い出す。

 白い紙に、レモン汁で字や絵を描いて、乾いてから火であぶると描いたものが浮かび上がる、あれ。

 何もないように見える白紙に、へたくそなあいうえおとかドラえもんがくっきり! というあの驚きと感動が、大人になってこんなふうに味わえるなんて。

 

 

 閑話休題

 

 

 主題はタイトルの通り「誘拐」ではあるけれど、事件そのものはさておき私が注目したのは、磯村咲子という女性。

 事故で怪我を負い寝たきり老人のようになってしまった母親(まだ五十代)の世話をたった一人でしている咲子。そんな、外出もままならない不自由な暮らしに疲憊している彼女の心の拠り所となったのは、インターネット上で知り合った<ジーニアス>と名乗る男。咲子は、その<ジーニアス>の‘仕事’を手伝っているのだが……

 

 

ジーニアス>の話しぶりには知性が溢れ、咲子を退屈させることはなかった。<ジーニアス>と言葉を交わすだけで、咲子は自分が新たな何かを得たような気になった。

 

 

 たまたまチャットルームで出会い文字を交わしているだけなのに、すっかり<ジーニアス>の虜。理想の男性像を彼に重ね、彼とのやり取りだけが楽しみとなっている。

 まあこれだけなら、インターネット上ではよくあることか、くらいの理解はできる。

 

 危険だと感じるのは、その無防備な信頼の寄せ方。

 

 ある時期から、咲子は<ジーニアス>に対し「あれ? なんかおかしいな」と不穏なものを察知した、にもかかわらずその不信感をなかったことにするように封じ込めてしまうのだ。

 

 

ジーニアス>は咲子にとってあり得ないはずの理想の男性だった。こんな人間が世の中に存在するとは、心の中では願ってはいても、自分でも信じていなかった。<ジーニアス>とは画面上のやり取りしないだけに、咲子の裡では次第に神格化されていった。<ジーニアス>の言うことは絶対だと、妄信的に信じるようになっていた。

 

 すでに良からぬ疑いが芽生えた後とは思えないこの従順な様は、あっさりと新興宗教に嵌っていった人々のそれである。

 

 やっと見つけた唯一の救いを是が非でも手放したくないのはわかるけど……

 

 

 絶対怪しいって! 

 

 

 そんな私の声は届くはずもない。

 

 陰鬱な日常のやりきれなさに潤いを与えてくれた<ジーニアス>は、まさに神。

 実質何もしてくれない他人の声なんて、たとえ聴こえたとしても従うまい。

 

 

 しかしこの後も疑惑はどうしても拭いきれず、本人にはっきりと否定してほしいあまり、咲子は<ジーニアス>に探りを入れる。

 すると<ジーニアス>は、のらりくらりとはぐらかした上で、しばらくコンタクトを取らないと、そっけなく返してきた。

 

 

<待ってください。本当に、そんなつもりじゃなかったんです。また、仕事をやらせてください。お願いします>

咲子は先ほどまで抱えていた疑惑も忘れて、そう懇願した。

 

 

 はぐらかしてきた時点で怪しさ倍増のはずなのに、むしろすがりつく咲子の依存度の高さがよく表れているこの台詞には、薄ら寒さを覚えた。

 

 部外者から見れば、どうしてそんな簡単に信じてしまうのか、どうして疑いが出てきた時点で自分から離れなかったのか、と冷静に考えられる。

 それができないくらい精神が追い詰められてしまうのは、『坂の途中の家』(角田光代著)の里沙子とも共通しているのだが、「家」という小さな社会に閉じ込められていることが大きな要因ではないだろうか。

 

 

 

 これは、他人事ではない

 

 

 私にも、誰の身にも、日常の延長で起こり得ることだ。

 

 自分の意志ではなく、親や乳幼児の世話をしなければならず、そのため外部との接触が極端に減ることは、決して稀有な境遇ではない。

 そういう不可避の状況において精神を健全に保つには、では一体どうすればいいのだろうか。

 助け合える他の家族も、優しく慰めてくれる恋人も、労ってくれる友人もいなかったら、咲子のように実在しない(どこかにはいるけれど、触れることのできない)誰かに救いを求めるしかないのか……。

 

  

 誰か(何か)を信用する/しないの決定は、都度のコンディションによって左右される部分が大きい。

 グレーゾーンにあるものに信頼を寄せてしまうのは、弱っている時や細かいことをごちゃごちゃ考えたくないくらい忙しい、あるいは投げやりな時。逆に過剰に不信感を抱いてガードがガチガチ、というパターンもある。

 その調整は、当たり前だけど自分でするしかないので、日頃から自分の心の状態を知っておくことでしか回避できないと思う。

 

 

あ、今私は自分に都合よく信じようとしているな

何の根拠もないのに疑いばかり持っているな

 

 そういう微かな信号を、見逃さない。小さなサインを、侮らずに、面倒臭がらずに、拾っていく。そして、キャッチしたらすかさず“つまみ”をひねって微調整する。そういう繰り返しをつぶさにしていけば、大幅に信用しすぎ/しなさすぎということは減っていく気がする。

 

  と言うのは実に簡単だけれど、一旦鬱屈を抱えた人間が空虚を満たすようにして何かにすがるのは自然の流れで、それを未然に防ぐのはなかなか難しい。

 

 人間って、やっぱり何かに依存していたい生き物だから。

 

 

 

 世の中で信頼できるものは少ない。

 でも、ゼロではない。

 そしてゼロではない数は、自分が思っているよりは多い。かもしれない。

 

  

 

 いつ私に起こってもおかしくない事態に備えて、このくらいの気持ちで生きていこう。前向きでもなく、後ろ向きでもなく、ただそんなふうに思った。