以前、別の小説の感想の中に、自分自身の大学時代を「恋愛至上主義の時代だった(暇だったのだ)。」と振り返って書いた。
この小説では、主人公・ハナが、私の(暇だったのだ)とまったく同じことを言っている。
「ねえおねえちゃん。チサトさんもおねえちゃんもだけど、結婚したくないのにどうして恋愛はしようとするの?」
夜空を見上げてナエは訊いた。
「そりゃあんた」
つられて私も空を仰ぎ、続く言葉をさがした。月が溶け出す寸前みたいにぼやけている。
「恋愛でもしてなきゃ退屈だからでしょ」
さらにこのやりとりをチサトにも話す。
「どうして結婚はしたくないのに恋愛はしたいの? って妹に訊かれてさ、退屈してるからだって私は答えたんだよね、冗談のつもりだったのに妹は妙になっとくしたの。ねえチーちゃん、その夫婦もだけど、でも私たちもやっぱり退屈してるんだと思うんだよ、退屈してるわりには刺激物を選り好みするんだから贅沢だよね」
そう、冗談めかしてはいるけれど、退屈(暇)だから恋愛するというのはあながち冗談ではなくて、逆に退屈じゃなかったら恋愛なんてしないよということにもなる。もっといえば、結婚は(恋愛と違って)「退屈だから」でできる簡単なものだとは思っていないし、そこまでする気はない。
私の場合は大学生で正真正銘の暇だったのだけど、ハナはといえば、学生時代からの友人・チサトと古着屋を起ち上げ奮闘していて、退屈そうには見えない。
つまり退屈というのは実質的に時間があり余っていることだけをさすのではなくて、時間の有無以上に気分の問題が大きいのだと気づく。
ここで「退屈」の対義語を調べてみたら「熱中」と出た。
なるほど「多忙」ではないのだなと合点がいく(ちなみに退屈と暇は類語)。
私もハナも、熱中するものがなく、それを埋めるように恋愛を求めていたのだ。
チサトと違って私は、有名になりたいとももっと稼ぎたいとも思わない。
(中略)
チサトと別々になったら――あの店から手を引いてひとりぼっちになったら――そう考えるとぞっとした。私には何もないのだ。本当に何もない。すでにすべてを失ったように私は呆然とした。マンションの最寄り駅で電車を降りて、けれどそもそも失うようなものなんか、私には何ひとつないじゃないかとさらに気づいて、酔いがすっと醒めた。
作り出すことも、手に入れることも、守ることも奪うこともせず、私は、年齢だけ重ねてきたのだった。
好きな仕事を選びどこにも属さず(しがらみの少ないところに属し)自由にやっているふうで、でもそこまでその仕事に執着も熱意もないという今現在の私にもオーバーラップするハナの心情が突き刺さった。
人生は恋愛(結婚も含む)OR仕事の二択ではない。ないけれど、絶対に崩れない二大巨塔みたいに存在している。いつからかそこにある共同幻想は呪いにも近い。
どちらか一方、できれば両方に熱中していないと無意味で無価値な自分ができあがってしまう。
有名になりたいと豪語するチサトのような野心がないというのは別に悪いことではないと思う。持っていないし、持とうとも思っていない。
ただ、仕事にせよ恋愛にせよそれ以外のものにせよ、私に足りないのは熱量だ。
これは嫌だ、これはしたくない、これは無理だ、と消去法で残ったものに甘んじるのではないもっと能動的な熱。
私には何ができるんだろう? 私は何をすることで、自分だけの城を作れるんだろう?
友人たちが次々と結婚したり、突然母親が死んだり、フリーターだった元恋人が就職したり、周りはどんどん動いていく中、せっつかれるようにハナも動き始める。
空回りを繰り返しながら、でも確実に何かが変わっていく。
では私は、といえば……
予想以上に長引くコロナ騒動で不用意な外出もままならない今、まさに暇を強いられて発狂しそうになるくらいだけれど、さすがにこれを埋めるために恋愛しようなんて発想は出てこない。
もう私は退屈しのぎに恋愛、ではなく犬でも飼おうか……という年頃。
それ40代独女がやっちゃダメなやつ、そこに手を延ばしたらもう本当にあれですよ、と自らに言い聞かせて我慢している。
相反して、熱中するものが犬でもいいじゃない! 犬が活力、大いに結構! と開き直る気持ちもある。
とはいえ今犬を飼うことは現実的ではないので、犬でもヒトでもない何か熱を注入できるものを見直してみるか。そう思っている。