「差し当たり実現不可」のラベルを貼って封印している犬猫(を飼いたい)熱が再燃してしまうじゃないのーーー
と、叫びたくなるような猫との暮らしを描いたエッセイ漫画。
グーグーの変な行動や、翻弄される飼い主(著者)の姿をにやにやしながら読み、また我が家の愛犬(とくに二代目の犬)を思い出し、なんとも形容し難い切なさでいっぱいになった。
二代目がうちに来たのは既に私が実家から出て一人暮らしをしていた大学生の頃。
当時、まさに今の私と同じくらいの年齢だった母親に「弟が欲しい」と無理難題を言い続けていたら(そのせいかはわからないが)、雄の仔犬が家族の一員になった。
盆暮れにも実家に顔を見せないような私だったが、月に一度仔犬に会うためだけに足しげく帰省したのは言うまでもない。
その後、3年くらい実家に住んだ期間が二代目との最も密な時間となった。
もちろん私は彼を溺愛し、また本当の兄弟のようによく喧嘩もした。
たとえば、まだ小さかった二代目は、私がいない間に私の部屋に入っては色々な物を齧った。
仕事から疲れて帰ってきて、大事にしていたバッグが傷つけられているのを発見した時は本気で怒り、3日は口をきかなかった。
最初はしおらしくしていた彼が、少し経つと、もういいだろうとでも思ったのか何事もなかったかのように「遊んでー」と寄って来たが、目も合わせず無視し続けた。
見かねた母が「大人げない。いい加減にしなさい」と私を叱ったので、「なぜイタズラをした子ではなく、された方が怒られるのだ」と更に大人げなく犬にそっけない態度を取り続けた。
が、最終的にはめげずにやってくる二代目が可愛すぎて、「ごめんねー。もう許す! 遊ぼー遊ぼー」と撫でまわして抱きしめた。
また別の日。
休日は昼まで寝る(そんなことができる若さよ……)から絶対入って来ないでと言ってあったのに、早朝から私のベッドに入って来て顔を舐め回し遊びの催促をする彼に腹を立て、やはり喧嘩になった。
散歩に連れて行くと、近所の小学生がついて来ることが度々あった。
「お姉さん、この犬はなんていうしゅるい?」と訊かれ、「ミニチュアダックスだよ」と答えると、「ふーん……」と変な感じになる。
二代目は骨太・筋肉質・大食いのせいで、10kg以上あったのだ(注:平均的なミニチュアダックスは5kg)。
それで私は、犬種を訊かれたら小声で「ダックス」とだけ言うようになった。
そんな二代目が寿命を迎え17歳で死んだ時、私は異国にいた。
仕事の休憩時にメールを見たら、姉から「死んじゃったよ」という連絡がきていた。
ぼろぼろ涙を流し、上司に「今日は帰らせてください」とそれこそ大人げのない我儘を言って、一週間後には散骨をするために帰国していた。
二代目は、今でも私の夢によく現れる。
夢に出て来る彼は、ほとんどの場合小さい(正規のミニチュアダックスの)サイズになっている。
朝起きて、また夢で会えた悦びに混じって、「キミは本当にミニチュアダックスなの?」「ちょっと、重いんですけど!」とからかっていたのを気にして小さくなって来るのかと、泣きそうな気分になる(これを書きながらも泣きそう)。
二度目の猫はトクである
死んだ猫の分まで大切にされる
ということはサバがグーグーを守っているのだ
我が家の初代もみんなに愛されてはいたけれど、彼女は外犬だったのもあって、二代目のように「一緒に住んでいる」という意識が薄かったように思う。
それ故、喧嘩するなんてこともなかったし、控えめな性格でもあったので、事件という事件は起こらなかった。
その比較もあって、とにかくイタズラ坊主の二代目は、まんまと私が保持していた「なんやかんや許される末っ子」の座を奪っていった。
この漫画を読んで、ああ、やっぱり今の私には犬(あるいは猫でも)が必要かもしれないと切に思った。
子供もパートナーもいない暮らしはほぼ全てのことが自由意志と自己責任で決められる。
寂しさと引き換えに、私はその気楽さを選んできたし、それが一番向いている(それしか向いていない)と思っている。
けれども、他者が介入してこない生活というのは時に味気なく、時に虚しく、平和と言うこともできるがつまらないものでもある。
組織の中で働いているので、その中にいる間は自分の役割があって、それをまっとうできていたりできなかったりを感じることはできる。
しかし家庭となると、私には何の役目もなく、ただ己が飢え死にしなければ良いだけのこと。
多分、その状態が長く続いているせいで、家庭内での役が欲しくなっているのだと気付いた(そしてベクトルは人間と築く家庭ではない方を向いている)。
今更かよ。
と我ながら笑えるが、今そうなのだからしょうがない。
覚悟と準備
この二つが揃った時が動く時。そんな日は来るのだろうか、まだわからない。