乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#141 黒猫  エドガー・アラン・ポー著

 

 

 ごく短い話の内容も、なぜ読んだのかもいつもの如く忘れていたのだけど、読友さんが読んでいたのを見て、どんな話だったか思い出すために再読してみた。

 

 

 これは、ある男が、絞首刑で明日死ぬという状況で残した手記。

 

 子供の頃から動物好きだった彼は、大人になってますます動物を愛玩するようになり、とりわけ黒い猫を可愛がっていた。

 ところが、彼はアルコール依存症になって、動物たちを虐待し始める。

 

 

私は、前にあんなに自分を慕っていた動物がこんなに明らかに自分を嫌うようになったことを、初めは悲しく思うくらいに、昔の心が残っていた。しかしこの感情もやがて癇癪に変っていった。それから、まるで私を最後の取り返しのつかない破滅に陥らせるためのように、天邪鬼の心持がやってきた。この心持を哲学は少しも認めていない。けれども、私は、自分の魂が生きているということと同じくらいに、天邪鬼が人間の原始的な衝動の一つ――人の性格に命令する、分つことのできない本源的な性能もしくは感情の一つ――であるということを確信している。してはいけないという、ただそれだけの理由で、自分が邪悪な、あるいは愚かな行為をしていることに、人はどんなにかしばしば気づいたことであろう。人は、掟を、単にそれが掟であると知っているだけのために、その最善の判断に逆らってまでも、その掟を破ろうとする永続的な性向を、もっていはしないだろうか?

 

 

 天邪鬼の心持、つまり、本来可愛いはずの動物をいじめたくなる心は、人間に根源的にある感情の一つだといっている。

 彼の場合はアルコールによって普段は眠っているその恐ろしい感情が呼び覚まされ、実行してしまうのだけど、アルコール抜きにしてもそういう欲望を感じることは、私にもある。

 

 しかも私の場合は動物ではなく人間(も動物だけど)の子供だからもっと悪い。

 たとえば泣き叫ぶどこかの子供だとか、妙に癇に障る顔つきの子供を見ると、ぐちゃぐちゃにしてやりたくなるような衝動が芽生える瞬間がある。

 ああ、子供を産むということをしなくて良かった、もし産んでいたら我が子を虐待する母親になっていたかもしれない、そんなふうにひやりとする。

 

 実際には身近に対象になる子供はいないし、まさか通りすがりの子供にそこまでの癇癪を持つことはないから、結果的に彼のような行動はとることはない。

 けれど、自分の中にそのような残虐性が危険物のシール付きで潜んでいることは知っている。

 

 世間では動物も子供も可愛いものだという共通認識があって、だから自分の持つこの部分について敢えて人に話したことはない。

 

 単純な好き嫌いの問題ではない。

 彼も私も元来は動物好きのグループに属していて、なのに持っている危険な心理(だからこそ”天邪鬼”)を説明するのは難しいし、おそらく相手を不快にさせるだけだし、なによりわざわざ発表することではない。

 

 

 

 が、この話を読んでいたら、こっそりと打ち明けたくなった。

 

 私にもある!

 

 

 王様の耳はロバの耳ではないけど、自分の秘密を穴の中に吐露するようにこれを書いている。