乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#100 コインロッカー・ベイビーズ  村上龍著

 

 

 私にとって初めての村上龍は、デビュー作『限りなく透明に近いブルー』ではなく、この『コインロッカー・ベイビーズ』だった。

 

 当時15歳の私がこの本を手に取ったのは、ティーンらしい不純な動機。

 その頃追いかけていた大好きなギタリストが意外にも読書家で(それを知ってますます好きになった)、ある音楽雑誌のインタビューに「好きな小説はコインロッカーベイビーズ」と答えていたからだ。

 

 村上龍という作家のことなんて名前すら知らなかったけれど、彼が好きなら読む。読むしかない。

 

 で、読んだ。

 

 ガーーン、という音がするのは漫画の中だけではなく、本当にするのだと知った。

 

 今思えば、おそらく内容は半分も理解できていなかっただろう。

 でも、新しい扉が開く感覚は、確かにあった。

 自分の知る世界はいかに狭く、未知の世界は無限に拡がっているのだ、という衝撃。

 

 それは決してわかりやすく美しい世界ではない。

 生々しさに満ちた、どちらかといえば不快を誘う、なのにもっと見たくなる。

 

 文章の、物語の、主人公の放つエネルギーに、ただただ圧倒された。

 

 それから何年か経ち、大学生になった私は、またこの小説を手に取った。

 前よりはやや理解を深めながら、震えた。

 

 その後、引っ越しや何かで文庫を手放しては、また読みたくなって買い直し、また売って、また買うということを何度も繰り返した。

 

 

 

 昨年、あるテレビ番組でTHE BLUE HEARTS(現ザ・クロマニヨンズ)の甲本ヒロトさんが、昔の音楽/今の音楽への思いを語っていた。(以下要約)

 

「若い人はみんないいと思う。音楽って、何がいいとか形とかないんですよ。一箇所感じるのは、歌詞を聴き過ぎ。アナログの頃、僕らは音で全部聴いてた。洋楽でも意味はどうでもよかった。ロックは僕を元気にしてくれたけど、元気づけるような歌詞は一つもないんだよ。お前に未来はないとか歌ってんだよ、No more future for youとか、それ聴いて、ヨシ今日も学校行こう! って思って行ったんだ。関係ないんだよ。でもデジタルになると、情報としてそれがきれいに入ってきちゃって、文字を追い過ぎてるような気がちょっとだけする。」

 

 

コインロッカー・ベイビーズ』を読むと、文学も、本来そういうものなのかもしれない、そんな気がしてくる。

 

 小説には必ず登場人物がいて、物語を織り成していく。

 が、設定や台詞や展開よりも、ダイレクトに感覚に訴えてくるものがすべてなんじゃないかと。

 

 多くの小説は、私の中で眠る感情を刺激し、そこから新しい発見を与えてくれる。

 同感からの安心、反発からの怒り、苛立ち、高揚感、好奇心、いろいろな角度から感情が沸き上がってくる、それが読書の楽しみの要素だと思っていた。

 

 本作には、それが一つもない。

 登場人物の誰にも自分が重なることはないし、コインロッカーに棄てられた彼らを可哀想だとも思わないし、棄てた母親を非難する気持ちも湧かない。

 

 

 その世界には、「この私」が存在しない。

 

 

 自我とかけ離れたところで、ただ、あらゆる感覚だけが覚醒してストーリーとともに駆け抜ける。

 

 

 生後間もなくコインロッカーに棄てられ、乳児院で育ったキクとハシ。ともに引き取られた九州の孤島。廃墟。バイクの爆音。野良犬。ダチュラ。ハシの失踪。ハシを探すキク。東京の繁華街。浮浪者。薬島。鰐。破壊。

 

 

「考えちゃだめよキク、考えちゃだめ、あんたあの高い棒を跳ぼうとする時、何か考える? 走り出した後よ、跳べるだろうか、失敗するだろうかって考える? 考えないでしょ? あたしが嫌いなタイプの人間は多勢いるわ、その中でも最低なのは悩んだり反省ばかりしている連中よ、自分について考えるような人はあたしに言わせればもう棺桶に脚を突っ込んでるんだわ」

 

 

 

 私はこれまでブログを更新する時に、とくにシリアルナンバーと作品の関連を配慮したことはないけれど、100という記念すべき番号にこの思い入れの強い作品があたった(あてられた)ことは、本当に嬉しく思う。