乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#57 人間失格  太宰治著

 

 

 私の読書史上、再読回数断トツ1位の作品。

 

 

自分は、わざと出来るだけ厳粛な顔をして、鉄棒めがけて、えいっと叫んで飛び、そのまま幅跳びのように前方へ飛んでしまって、砂地にドスンと尻餅をつきました。すべて、計画的な失敗でした。果たして皆の大笑いになり、自分も苦笑しながら起き上がってズボンの砂を払っていると、いつそこへ来ていたのか、竹一が自分の背中をつつき、低い声でこう囁きました。

「ワザ、ワザ」

 

 この、主人公・大庭葉蔵が演じる“道化”を中学校の同級生・竹一が見抜くくだりを初めて読んだ時の衝撃たるや。

 

 

 竹一、まじ怖えー

 

 

 まだ十代だった私はそんなふうに思った。

 

 以来、どれだけ歳を重ねても、この場面は毎回私の心を刺す。

 

 

 これまで私は葉蔵サイド、つまり見破られた側の気まずさと恐怖をひりひりと体感してきたのだけれど、今回は違う視点で読みたかった。

 

 

 私の中の黒竹一

 

 この小説は葉蔵の手記という体なので、竹一の心情は全く書かれていない。ただ竹一については「学課は少しも出来ず、教練や体操はいつも見学という白痴に似た生徒でした」とあるので、「ワザ、ワザ」と言ったことに他意はないように思う。その発言が葉蔵を「世界が一瞬にして地獄の業火に包まれて燃え上がるのを眼前に見るような心地」にさせたなんてつゆも知らずに、ワザとであるのがわかったから言ったにすぎない。

 

 しかし私の中にいる竹一は、純真な中学生ではない。しっかりとした意識を持った大人として他人の振る舞いから透ける下心を観察している。

 

 

 竹一は無邪気に、私は邪(よこしま)に、作為を露呈させる

 

 

 葉蔵ほどでないにせよ、また、意識無意識に拘わらず、私たちは「こう見られたい自分」を演じながら生きている。“ありのまま”の私だって、そう見られることの期待も作為もゼロではないはず。

 そのこと自体は人間として自然なもので、良いも悪いもないのだと思うけれど、私は、自分自身に行き過ぎた演技を見つけるととても嫌な気持ちになる。そして、他者にそれを見た時もやはり同じように重い不快感を持つ。

 

 

 へえー、そういうふうに見られたいんだ……

 

 

 これは私が折に触れ「鈍感になりたい」と思うことの一つで、できることなら気づきたくない、最悪気づいてもスルーしたい。なのに、それがうまくできない。私が葉蔵の級友だったら、竹一と同じことをそれこそ「ワザと」言っていただろう。

 

 

 本当は、やさしくしたい。他人も、自分も、大目に見たい。

 

 

 お茶目を装う葉蔵を素直に笑い、武勇伝語る人には「ワルだったんですね」とヨイショして、不思議ちゃんには「変わってるね」と言ってあげたい。

 

 だから、お願いだから、演じる方は(私も含め)とことん演技力を上げてほしい。まちがっても、わかりやすいドヤ顔や澄まし顔をしないでほしい。

 

 いや、そんな都合のいいことは考えずに、「バレてますよ」と知らしめたくなる性根の悪さをどうにかすること、たとえ周りにいる人たちが気づかずにいても「騙されてる」などと思わないようにすることが先だ。

 その人が、そう見られたいなら、それでいいじゃない。みんながそれを信じても、いいじゃない。そうさらっと流せる大人力を身に付けたい。

 

 

 

 この小説はこの場面だけでなく、とにかく自意識をつんつん突いてくるので読み心地は決して良くない。けれどその苦痛はイタキモ(痛いけど気持ちいい)なので中毒性があり、きっとまた間をおいて読むことになるともう確信している。

 

 <余談>

 昨年公開の映画『人間失格 太宰治と3人の女たち』(主演男優は私の持つ太宰のイメージとは全然違うけど)もすごく気になる。

 危ぶまれていたDVD化は今年4月に発売が決定したようなので、これでいつか観れると安心。「作品に罪はない」という常套句が他人事ではなく本当にそうだと実感している。