乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#135 海と毒薬  遠藤周作著

 

 

 罪悪感ってなんだろう。

 

 罪悪感がない人=謙虚でない人=空気を読めない人だと思っていた。

 

 しかしこの小説では、罪悪感を持つ人の方が空気を読んでいない側になっている。

 

 みんなで渡れば怖くない赤信号の前で、「え、渡っていいの?」と道徳観を持ち出すのはナンセンス。今、それ言っちゃうわけ? と赤信号を渡ろうとする“みんな”を白けさせる。

 

 戦争という特殊な非常事態の下、あるまじき行為に加担させられた医局研究生・勝呂が、自分の意志ではないにせよ道徳に反する行いに参加することになり、その罪の意識に苦悩する。

 そしてもう一人、同じ立場で同じ状況にいながら良心の呵責に苛まれることなく割り切っている戸田という人物がいる。

 

 一人の人間の中にあっておかしくない葛藤を二人の人間に分けて書いていて、さて自分だったらどっちの道を取るだろうかという想像に自然と導かれる。

 

 赤信号の前で躊躇したものの結局大きな流れに逆らい切れなかった勝呂は、後々までその罪の意識を背負って生きる。

 

 一方、悪いとわかってはいるが仕方ないさと開き直る同僚の将来は書かれていない。

幼少時代の彼は『人間失格』(太宰治著)の葉蔵のパクリと言ってもいいくらい、自己演出をしれっとやる子供(で、それを密かに見抜く竹一のような同級生もいる)だった。

 

 

 そのくせ、長い間、ぼくは自分が良心の麻痺した男だと考えたことはなかった。良心の呵責とは今まで書いた通り、子供の時からぼくにとっては、他人の眼、社会の罰にたいする恐怖だけだったのである。勿論、自分が善人だとは思いもしなかったが、どの友人も一皮むけば、ぼくと同じだと考えていたのである。偶然の結果かも知れないがぼくがやった事はいつも罰をうけることはなく、社会の非難をあびることはなかった。

 

 

 恐れているのは常に罰であって、罪に対しては自ら「不気味だ」と分析するほど無感動なこの戸田という男も興味深いけれど、それ以上に脇役の看護婦(まだこの表記の時代)の視点で語られているところが印象に残った。

 

 この極限状態にあった一時期は、第一線の医師だけのものではない。当然そこに生きる女だって、色々あるのだ。

 

 勝呂と戸田、双方の対比だけを書くのではなく、末端の看護婦が抱く婦長や部長夫人(ヒルダという外国人)に抱く反感や密かなマウントが手記の形で差し込まれている。

 

そんな時、彼のYシャツの袖口のボタンが一つ、ちぎれているのを見つけてかすかな悦びさえ感じました。妻のヒルダさんが気づかぬことをわたしが知っていたからです。

 

 彼女は部長に興味があったわけではないから、その類の嫉妬を燃やしていたのではない。

 ヒルダのある言動によって口惜しさを味わったことへの反抗である。

 

 そんなこと? という些細なことではあるが、「夫のボタンには気づかないくせに病院でにこやかにビスケットを配るヒルダ」を馬鹿にして優位に立たなければ自分が憐れすぎる。なんと生々しい女心。

 

 

「わたしはなにも国のために承知するんじゃなくってよ。先生たちの研究のためでもなくってよ」

 日本が勝とうが、負けようが、わたしにはどうでもいいことでした。医学が進歩しようがしまいが、どうでもいいことでした。

 

 

 女の闘いは、いつだって目の前の現実との闘い。

 自分に持っていないものを見せつけ悔しみを与えてくる女が憎い。国同士の勝ち負けなんてどうでもいい。

 

あの夕暮、看護婦室で神さまがこわくないかと叫んだヒルダさんの言葉を思いだして、わたしは微笑しました。それは少し勝利の快感に似ていました。自分の夫がやがてなにをするかヒルダさんは知らない。けれども、わたしは知っています。

 

 

 この看護婦は、「妻であるヒルダが知らないことを、けれどもわたしは知っている」というところにとことん拘る。

 こんなリアルな女性的心理を描く遠藤周作、ちょっと怖い。

 

 

 なんにせよ、灰色の雲が立ち込めたような読後感になる小説だけど、きっとまた時を経て再読したくなるのだろうなという気がしている。