乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#64 乱反射  貫井徳郎著

   

    久しぶりに最初から最後まで前のめりで読んだ本。

 そろそろ寝なくちゃ……でももう少し……と読む手が止められず、つい夜更かししてしまうことは案外少ない(睡眠の大切さがだいたい勝つ)けど、これは睡眠時間を削ってでも読んでしまう小説だった。

 

 

 まずプロローグで幼い子どもが死ぬことが明示されているのに、本編が始まってしまうとそんな空気はなくいつしか忘れ去っていた。

 

 -44から0に向かう番号が振られた短い章は、家の近所や職場にいそうな普通の人たちの普通の生活がランダムに続いていて、多くの登場人物に少しずつムカつきながらどんどん進む。

 しばらくたってから、あれ、これ何の話だっけ? 本当にこのばらばらのエピソードがどこかで繋がるの? と不安になるくらい、一つひとつが独立した短編のようで面白い。

 

 それがいつしか0に近づくとようやく「!」となる仕掛け。

 そして0からは、幼児を亡くした親がその責任の所在を追求していきすべてが回収されていく。

 

 この著者の作品はどれを読んでも明晰な頭脳の持ち主であることに感心するのだけど、本作はとくに、構造・構成だけで天才か! というくらい秀逸。

 

 

 さて内容の方はといえば、まあ驚くくらい「謝らない人」が出てくる。

 

 まず、犬のフンを「かがむと腰が痛い」というだけで放置する爺さん。

 

「そこにいつもフンをさせるの、あんたかよ。犬のフンは持って帰るのがマナーだろ。いい年こいて、そんなことも知らないのか」

「なんだと」

 意外にも、醜い女子高生の口にしたことはごく真っ当な正論だった。瞬時に羞恥心が蘇り、赤面しかける。だが一歩遅れて、屈辱が幸造を支配した。こんな非常識の固まりのような女子高生に、こともあろうにマナーを注意された。五十を過ぎてからこちら、人を叱ることはあっても叱られたことなど皆無だったこの自分が、孫のような小娘に恥をかかされた。これほどの屈辱が他にあろうか。

 

 そのフンの苦情がきて片付けに出向いた市の職員は、見ていた子供に馬鹿にされたことで作業を怠った。

 

「少なくとも、ぼくの仕事じゃありません。なんですか、さっきから聞いてればまるでぼくが悪いかのようなことを言って。誰が一番悪いかと言えば業者だし、業者が犬のフンのせいにするならそんなところに放置していった犬の飼い主が次に悪いんじゃないんですか? どうしてぼくを責めるんですか? ぼくは少しも悪くないじゃないですか。ぼくになんの責任があるって言うんですか?」

 

 

 それから、単なる怠慢で救急患者の受け入れを拒否した医師。

 

「そうだよ、思い出した。風邪程度で夜にやってきた最初の人を思い出しましたよ。安西寛っていう学生です。きっとあの人が、夜は空いてるからすぐ診てもらえるとかなんとか言いふらしたんだ。夜間に来るのは学生ばっかりだったから。自分の都合しか考えないで、本当に医者を必要としている急患が来たらどうなるかなんて、学生たちは考えもしないんだ。我が儘でしょ。責められるべきは、そういう自分勝手な発想なんじゃないですか。ぼくはただ、医者としての責務を全うしただけですよ」

 

 学生・安西寛はこう言う。

 

「ど、どうしてぼくが責められなきゃならないんですか? 他にも大勢いたから、病院は受け入れを拒否したんでしょ。だいたいその日は、ぼくは病院に行ってないですよ。誰かを咎めたいなら、その夜に病院にいたひとりひとりを責めて回るべきじゃないですか。どうしてぼくなんですか?」

 

 この他にも、小さな子どもの死に繋がる原因を(意図せずとも)作った人は皆同様に「自分は悪くない」「責任はあっちだ」と言い張る。

 

 謝罪ってなんなんだろう……

 

 本当に謝らなければならない人が、つまらない虚栄心や、責任逃れ(保身)のために頑として謝らない。

 一方、昨今のメディアでは、本当は不特定多数に対して謝る必要なんてないのに謝らなければ収拾がつかないからと頭を下げる画がもうお馴染みになっていて、それはそれで空っぽな形式でしかない。

 

 

 確かに自分が悪いと認める(場合によっては叱責を受け入れる)のは、辛い。避けられるものなら避けたい。

 そんなことは子どもの頃から知っていて、だから本当は悪いことをしてしまった自覚はあってもなかなか「ごめんなさい」が言えなかったりする。

 ただ、子どもの場合は、お母さんが怖いあるいは先生に怒られたくないというのが謝らない理由だけれど、いつしか「謝ったら負け」みたいな意識が邪魔をして謝らなくなる。

 

 悪いことをしたら謝るというとてもシンプルなことを、勝ち負けにすり替えているのは間違いなく虚栄心で、フンを拾わない爺さんのいう「こんな屈辱」こそが最たるものだろう。本来、謝る行為は相手によって左右されるものではないのに。

 

 

 この小説は、私たちが日ごろ「まあいっか」と誤魔化していることが偶然重なったとき、とんでもないことが起こり得るという何とも身につまされるもの。

 

 ともすれば教訓を提示する「道徳本」になりそうな内容なのに決して説教くさくなく、それでいて読む者に自発的に反省や見直しをさせてくれる。

  

 日々のいちいちに「このことがもしかしたら惨事を招くかも」と考えて行動するわけにはいかないし、どうしても自分本位になってしまうもの。

 けれど、もう一歩思慮をはたらかせて、ついやってしまう「“みんな”やっている」ような自分さえ良ければいい行いは慎むようにしようと、身の引き締まる思いになっている。

 

 それは今、世界中で必要なことなのかもしれない。