乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#154 諦めない女  桂望実著

 

 

 母親はこうあるべきという呪縛の強さというのは、他の小説を読んでいても感じることがあるし、実社会でもまだまだこの種の幻想が蔓延していると思うことがよくある。

 

『坂の途中の家』(角田光代著)の里沙子も、「母親なんだから」というプレッシャーに苦しんでいた。

 

 本書の母親(京子)は、里沙子とは違う形――母親として娘を「諦めない」という方向――で突っ走り、けれど同じように苦しそうだ。

 

「先生までそんな……あの子は生きています。現実から目を逸らしているんじゃありません。逃げていません。あの子は生きているんです。我が子ですから、もし死んでいたら母親の私にはわかります。毎朝私はとても気持ち良く起きるんです。娘が今日帰って来るように思うからです。どうして皆は私に娘を諦めるよう諭すんですか。諦めませんよ。母親ですから。それに、あの子は確かに生きているんですから」

 

 スーパーの駐車場で、ほんの少し一人になった間に忽然と姿を消した娘を、いつか帰ってくると信じて待つのは母親だけでなく家族であれば当然の思いではある。

 

 が、この京子の執念たるや、何年経っても一向に娘が見つかる兆しもなく、誘拐されたのだとしても犯人が捕まるわけでもない状況で、娘を待つこと以外のすべてを投げ捨て、とにかく「諦めない」。

 そして、同じようにならない夫や姉らを「諦めた」人=愛情の薄い人として蔑む。

 

 

 京子の心理はストーカーのそれと同じで、こんなに愛しているのは自分だけだという矜持で成り立っている。

 その盾となっているのが「母親なんだから」という常套句。

 

 母親なら当たり前という観念は、たぶん、程度の差こそあれどの母親にもあるのだとは思う。

 けれど、あるレベルを超えたら要注意だ。

 本当は当たり前なんてことは一個もないのだから。

 

 

 そう思い込ませているのは当事者の周りの人々や社会全体でもあるわけだから、責任は本人だけではないのも事実。

 逆にちょっとでも愛情が薄いようなことがあればやれネグレクトだとか、母親として失格だと糾弾されてしまう、辛い立場だと思う。

 

 

 先日も書いた不倫した某女優も、最初のスクープの時に「母親なんですからそんなことしません」と言ったとか言わないとか騒がれていたけれど、母親というワードを盾にするのは本当にやめた方がいい。

 母親だって、色々やらかすこともある。母親ならやるはずがないと、本人が言うのも周りが思うのも、どちらもおかしい。

 

 

 

どれだけ言葉を尽くしても、母は自分の愛情が間違っていると認めない。認めないから謝らない。その自信はどこからくるのか、ずっと不思議だった。子育てが下手であるとか、母親として未熟であるのを認めるのはそんなに大変なのか……。それは本当に愛情なのかと、成長するにつれて私は疑うようになった。母の自己満足の犠牲にはならないと心を決めるまでには、途方もない時間が掛かってしまったのよね。私は母が嫌いで、でもそう思う度、今でも自分の心が痛むことにムカついている。

 

 これは京子のことではなく、京子に取材をしていたライターが自身の母との関係を思い起こしているところ。

 

 私にとって、母親ではなく、父親との関係がまさにこれ。

 

 父は私がまだ10歳になるかならないかの頃から、「お前のために」を連呼していて、それを愛情だと信じて疑わず、だから間違っているとは絶対に認めなかった。今も、認めていない。謝らない。

 

 私の場合は初期から「これは愛情ではない。自己満足だ。この人は嘘つきだ。」と思っていた(言語化できていなくても確かな感覚としてあった)ので、嫌いになることもそれを自覚することも時間は掛からなかった。

 

 が、驚くことに当の本人はこんなに長い間娘(私)に忌み嫌われ、避けられ、愛情の交流がない状態なのに、まだ自信を持っている。

 

 そういう人とは話しても無駄だ。

 けれど、そういう人に限って話し合おうとけしかけてくる。

 結局偽の愛情の押し売りだったり自己主張の強要だったりするから、乗っかってもメンタルをすり減らすのはこちらだけなので、一切応じない。

 

 もはや不思議という次元を通り越して、相手をなんらかの人格障害だと思うことにしたことで、私の中でこの問題は一旦決着している。

 

 

愛しているから執着する。

執着するのは愛ではない。

 

 この大きな矛盾を孕む愛というのは、親子だけでなくどの関係性においても、悩ましい。