乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#155 死の壁  養老孟司著

 

 

「死」というと、とんでもなく壮大なテーマに聞こえる。

 哲学的に語ることもできれば、スピリチュアル方面、医学的生物学的見地、宗教観、様々な切り口がある。

 

 ただ、どの角度から見ようとも、私たちヒトを含めた生物はみな生まれた時から必ず訪れる死に向かっているという一点は揺るぎない事実。

 そしてヒトだけがそのことを知っている(多分)ので、死を恐れたり願ったりあれこれこねくり回して考える。

 

 一方、日々死に近づいていることを知りながら、著者のいうように多くの人は「昨日の私と今日の私は同じ私」だと思い込んで生活している。

 一秒毎カウントダウンしていたら弊害が出るのでいちいち意識する必要はないと思うけれど、あまりに生きていることが当たり前になっているのは確か。

 

 こんなにも世界で毎日誰かが死んでいるというのに、だ。

 戦争はなくならず、ウィルスが猛威を振るい、自然災害もテロも事故もいつ起こるかわからず、誰もが明日死んでもおかしくない。

 明日も生きている確証もないくせに、頭の中にあるのは今夜何食べようとか明日も仕事か面倒臭いなとかそういうことで、平和ボケってこういうこと。

 

 

 私個人の死に関する経験としては祖父母と犬の死ぐらいで、いずれも漠然と「自分よりは先に逝く者」という前提があったので悲しみは大なり小なりあっても「まさか!」という驚きは皆無だった。

 

 しかし母親の死を考えると、そうはいかない。

 前提に従えばいつかその日が来るわけだが、それが怖くてたまらない。

 自分の死よりも、母を失った後に生きることの方が怖い。

 じゃあ自分が先に死ねばいいのだけど、それはそれで母にとっては「子に先に死なれる」ことなので、得策ではない。

 このままだと母が死んだ直後に後追いをしかねないくらい、怖い。

 

 

 

 いずれにしても、そういう周囲の死を乗り越えた者が生き延びる。それが人生ということなのだと思います。そして身近な死というのは忌むべきことではなく、人生のなかで経験せざるをえないことなのです。それがあるほうが、人間、さまざまなことについて、もちろん自分についての理解も深まるのです。

 だから死について考えることは大切なのです。

 

 幼い頃にお父様を亡くした著者は、無意識に父親の死から影響を受け、長い時間をかけて受け止めたという。

 

 私にはまだ母の死そのものも、その時の自分も想像できないし、したくない。

 

しかし、長い目で見て、その死の経験を生かす生き方をすればよいのではないかと思うのです。

 それが生き残った者の課題です。そして生き残った者の考え方一つで、そういう暮らしは出来るはずなのです。

 

 この後、死を「人事」に喩え、良かったか悪かったかを判断するのは自分次第だと説きつつ、

 

 死というのは人事よりもはるかに理不尽にやってきます。問題は、そのときに、それを奇貨として受け止めるかどうかではないでしょうか。

 

 とある。

 

 私の場合はまだ起こってもいないし、すぐに起こりそうもないことを恐れているに過ぎないのだけど、それにしても奇貨として受け止めるなんて全然準備ができていない。

 

 多分事前に備えることではなくて(備えることなどできない)、そうなってから後、時間とともに自分で受け止めていくしかないのだろうなあと、漠然と思いながらもやっぱり考えたくはないことである。