私はキリスト教の女子中学・高校に通っていたので、クリスチャンである三浦綾子さんの本は学校で推奨されていたこともあって当時何作か読んだ。
毎朝の礼拝も、聖書の授業も、居眠りか内職にあてる時間と決めていた不真面目な生徒だった私でも、この『塩狩峠』や『氷点』は胸にくるものがあった。
三浦綾子といえば私の中では女版遠藤周作に位置するのだけど、改めて調べてみたら、なんとお二方はほぼ同い年で、お亡くなりになったのも同じ頃という偶然に驚いた。
だからなんだと言われてしまえばそれまでの、小さな新発見。
そんな両氏の著作は、私が反感や疑問ばかりを持っていたキリスト教色が濃い小説でありながらも不思議と喉ごしがよく、むしろ素直に教えられることの多い、説教臭くない説教本という感じ。
今回は相当の年月を経ての再読だったけれど、読む前から悲しい結末であることはわかっていた。
わかっていながら、主人公・信夫が身を投げうって多くの人を救う場面は、涙なくして読むことはできない。
ちなみに私がこれまで活字だけで泣いたのは、『塩狩峠』『野菊の墓』、それから武者小路実篤の『愛と死』の三作。
日常では懐疑的にものを見る癖があるというのに、自分でも意外なくらいベタな悲劇であっさり泣く。そして泣きながら、自分の中に在り続けるピュアな部分にちょっとだけ安心するのだ。
しかしそれはあくまでも他人の清い行いに感動するだけの純度であって、信夫のように生きられるか(死ねるか)とイコールではない。
誰かのために自分を捨てて、命を全うする。そんなことが私にはできるだろうか。
愛する母のためなら犠牲になれるかもしれない。
が、たまたま居合わせた誰かのためにとなるとどうだろう。
命と引き換えに助けようとするだろうか。
自分の時間や労力すら他人に奪われまいと惜しむ卑しさが私にはある。いわんや命をや。
義人なし、一人だになし
神の前で完全な人間はおらず、人はみな罪を持っている。
だから自分の邪な心も仕方がないのだと開き直るのではなく、だから謙虚になるべしというのがキリストの教え。
基本的に人間はみんな自分が可愛い生き物なんだから無理無理。と学生の頃と変わらないやさぐれた気持ちもないわけではないけれど、せめて半径5mくらいにいる人に対してもっと優しくしよう。なんてちょっと真面目に反省した。