あああああ。
自分を棚に上げて他人を責める下人も、詰められても都合のいい自己弁護をする老婆 も、どっちも私。やめてくれーーー
私が煙草を吸い始めてから30年、加速する嫌煙ブームにうんざりしながら、加熱式煙草は煙草と認めず、一生口から煙を吐き続けてやろうくらいに思っている。
けれど、愛煙家と自称するからには、歩き煙草やポイ捨てはしない。
むしろそれをしている人がいると、無性に腹が立つ。
日本よりも全然喫煙ルールの緩いところにいるから、毎日のように歩き煙草のオジサンに出くわす。たまに若い男の子もいるけれど、だいたいオジサンで、歩き煙草のオバサンは見たことがない。
それですれ違いざまにオジサンから漂う煙が流れてくると、「おい!」と思う。
喫煙者だからといって、他人の煙を好ましくは思わない。
「おい!」とは言わないけど、「おい!」という顔で見てやる。なんなら、咳払いすることもある。
それでも一向に気にする様子もなく更に煙を吐き出すオジサンに沸々と怒りが湧いてくる。
と同時に、自分だって歩き煙草もポイ捨てもしたことがあるくせにどの口が言うかと、自らの矛盾にも嫌気がさす。
基本的にはしなくても、どうしても吸いたくなったら立ち止まって吸うし、そこに灰皿がなければポイする。
お前に他人を断罪する資格などない。
『羅生門』の下人の心の動きが、自分の中の不義を認めながら他人のそれを目にした途端正義を振りかざしたくなる私の厭らしさと重なって悶絶。
その髪の毛が、一本ずつ抜けるのに従って、下人の心から派、恐怖が少しずつ消えて行った。そうして、それと同時に、この老婆に対するはげしい憎悪が、少しずつ動いて来た。――いや、この老婆に対すると云っては、語弊があるかも知れない。むしろ、あらゆる悪に対する反感が、一分毎に強さを増して来たのである。この時、誰かがこの下人に、さっき門の下でこの男が考えていた、飢え死にをするか盗人になるかと云う問題を、改めて持出したら、恐らく下人は、何の未練もなく餓死を選んだ事であろう。それほど、この男の悪を憎む心は、老婆の床に挿した松の木片のように、勢いよく燃え上り出していたのである。
ついさっきまで、飢え死にするくらいなら盗人になってやる! と思っていたくせに、死骸の髪を抜く老婆(さらにはあらゆる悪)に対して急に倫理を振りかざすなんてちゃんちゃらおかしい。
老婆は老婆で、負けじと開き直りともとれる自己弁護をする。
わたし、悪くないもん。この人の方がもっと悪いもん。
それで下人の贋物の倫理観はあっという間に崩れる。
下人が老婆を憎んだのは、自分はまだ天使と悪魔の囁きの狭間にいてかろうじて良心でもってもちこたえている最中だというのに、一足先に悪魔の誘いに乗っている老婆が羨ましい限りの自由の身に見えたからなんじゃないだろうか。
怒りの根源は、嫉妬だ。
ずるい! こっちは我慢していたのに! そんな勝手は許されないぞ!
この二人の場合はどちらも「生きるためにはやむを得ないのだ」という名目があって、私の煙草の話とはレベルが違うけれど、それにしても『鼻』然り『羅生門』然り、芥川龍之介は普段私が蓋をして見ないようにしているところを示唆してくる作家の一人。
下人の頬にある面皰(にきび)は私の内心にもある膿。
やっぱり『塩狩峠』の信夫のような聖人には程遠いのである。