乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#128 オツベルと象  宮沢賢治著

 

 先日、『注文の多い料理店』『ビジタリアン大祭』を読んだという友人と話していた時のこと。

 そういえば『オツベルと象』も宮沢賢治だったよね、という話になり、オツベル! サンタマリア! と一瞬にして火がついた。

 ユースケ・サンタマリアを見ても思い出すことのなかった「苦しいです。サンタマリア。」という哀しい響きが急に蘇る。

 

 

 教科書で読んだのは小学校? いや、中一だったか。

 新しい読み物のはじめの授業ではいつも朗読テープを聴かされていたので、「オツベルと象宮沢賢治。」という低い男性朗読者の声と、例の「サンタマリア」の声は鮮明に憶えている。

 

 

 オツベルときたら大したもんだ。稲扱器械の六台も据えつけて、のんのんのんのんのんのんと、大そろしない音をたててやっている。

(中略)

 小屋はずいぶん頑丈で、学校ぐらいあるのだが、何せ新式稲扱器械が、六台もそろってまわっているから、のんのんのんのんふるうのだ。

(中略)

 とにかく、そうして、のんのんのんのんやっていた。

 

 

 序盤の「のんのんのんのん」というリズミカルなオノマトペが牧歌的な物語に思わせるけれど、そうではない。

 稲扱器械を回す百姓たちを取り仕切るオツベルという資本家の強欲っぷりたるや。

 

 ちなみにオツベルという名前の馴染みのなさが急に気になって調べてみたら、「オツベル〔Otbert〕」はフランス・ドイツ両国で通用する名前で、「財産家」という意味をもつ。」そうだ。

 

 一方で、白象や沙羅樹が出て来ることからインドが舞台という説もある(Wikipedia)。南インドならカトリック教徒が多い地域だから、サンタマリアへの語りかけもおかしくはない。

 

 いずれにしても強欲オジサンといえばパイプをくわえ、ビフテキを食べるというわかりやすさ。書いてないけどちょび髭も生えているだろうと、勝手に想像する。

 

 

 で、このオツベルの仕事場に真っ白な象が森から迷い込んでくる。

 

 オツベルからしてみれば都合のいい稼ぎ手となった象は、いいようにこき使われ、食べ物はじょじょに減らされ、当然弱っていく。

 

 

「もう、さようなら、サンタマリア」

 

 しかしこうなるに至るにはこの象がイエスマンだったからにほかならない。

 確かにオツベルは酷いし、本人もおそらくその自覚はある。

 

 けれど象は、いつだって反抗できたし、逃げることもできた。なのに、そうせずに「ぼく、やるよ」と従い続けた。

 

 鎖を付けられたとはいえ、川へ水を汲みに行ったり森へ薪を拾いに行ったりするのだから、その時にもう帰らなければいいのでは?

 

 

 と思うが、そう簡単に逃げられない当時の労働環境の劣悪さや労働者の苦しみを書き、仲間の象たちがオツベルをやっつけることで労働者の勝利の旗を掲げたかったのだろうか。

 

 

 現代の私たちの中にも、見えない鎖に縛られ、こんなはずではなかった現実から逃れられずに己を擦り減らす毎日を送っている人はたくさんいる。

 私だって、今が最高だなんて思える(思えた)ことはごく稀で、何か――大きく言えば社会とかお金、親、それに自分自身の固定概念――に囚われて生きている感覚がある。

 そして、そういったものから完全に解放されることがいかに難しいかもわかっていて、しかし難しいということさえも思い込みであり実はやろうと思えばできることなのだというジレンマがある。

 

 

注文の多い料理店』もこの『オツベルと象』も、子供にとってはめでたしめでたしで終わる話だったけど、どちらも大人(の私)には単純なハッピーエンドではない。

 

 タイミングによってまったく違った印象になる、それもまた読書のおもしろみだと改めて思う。