不動産会社に就職して間もない主人公・松尾の奮闘を描くお仕事小説(という括りになるのかな)。
前半はブラック企業の実情がこれでもかと続き、なかなか営業成果を出せない松尾のストレスが体感的に伝わってくる。
家を売れ、とにかく売れ、お前ら営業は売る以外に存在する意味なんかないんだ、売れ売れ売れ売れ!
そんな罵声が飛び、蹴られ殴られ、深夜までの残業も休日出勤も当たり前の劣悪な環境で疲憊しきっている社員たち。
しかし当たり前だが家というのは野菜を売るのとはわけが違う。
買う側は数千万円の投資をするのだから、そう簡単に買いましょうとはならない。
それでも売れ、どうにかして売れ、なんてほとんど無理な話。
いつの時代の話だよ。
パワハラだセクハラだアルハラだと神経質(被害妄想)ともいえるくらい何かにつけてハラスメントを振りかざさなければ保身できない社会も健全とは思えないけど、かつての校内暴力を思い起こさせるような怒鳴り声や暴行がまかり通っている会社は勿論それ以上に問題で、そんな会社をさっさと辞めない松尾の気持ちが、はじめはまったく理解できなかった。
その理由は松尾自身もわかっていない。
そんな松尾に、ある時、上司の豊川課長が追及する。
お前は売れない。向いていない。金に困っているわけでもない、他に行く会社もある、なのになぜ辞めないのか、と。
「お前、自分のこと特別だと思ってるだろ」
「いや、お前は思ってる、自分は特別な存在だと思ってる。自分には大きな可能性が残されていて、いつか自分は何者かになるとどこかで思ってる。俺はお前のことが嫌いでも憎いわけでもない、事実を事実として言う。お前は特別でも何でもない、何かを成し遂げることはないし、何者にもならない」
この指摘が松尾に大きなショックを与え、転機のきっかけとなる。
つまり松尾は、何者かになるためにどれだけ酷い状況であってもしがみついていたというわけだ。
何者かになるためだけに?
そんな漠然とした理由で毎日ボロ雑巾みたいになるまで働くなんて、やっぱり腑に落ちない。
『夢を売る男』(百田尚樹著)の感想にも書いたが、世の中には「何者」かになりたい人がごまんといるのだということはわかってる。本を出版することで自己承認欲求を満たしまた本が売れれば「何者」かになれるのだと夢想する理屈も、理解できる。
が、有名作家になろうとすることと過酷な労働に耐えることの根っこが同じなのか、私の中でまだ繋がらない。
それがきれいに一本の線になったのは、たまたま聴いたバカリズムさんのラジオでの発言だった。
(以下要約)
「自分は追い込まれていないと納得がいかない性分。中学高校と辛い野球部を続けたのも、入口は野球が好きだったからではあるが、それよりも、キツい練習をやめたくないという気持ちの方が強かった。やめた自分を想像した時に、ものすごい劣等感に襲われるだろうと思ってぞっとした、それだけだった。」
これを松尾に置き換え、また今現在の私自身にも置き換えた途端、すっと身に染みた。
「何者」かになる方法は、創作や発信という自己表現だけに限らないのだ。
何かに耐えて成果を出すこと、成果は出なくても、少なくとも耐えることそのもので自分の存在を認めらるタイプの人間もいるのだ。
そして、「何者でもない小さな存在でいることも、悪くはない」なんて嘯いている私だって、実は何者かになろうとしているのだと正直に申告し直さなければならない。
バカリズムさんと松尾と私に共通するのはきっと、ラクを罪悪と感じる損な性質ではないかと思う。そしてこの性質というのが、本谷有希子さんが『かみにえともじ』でいっている「苦労癖」であり、どうしようもなく同感したことまで思い出した。
ピン芸人でもありドラマの脚本も手掛けたり多彩な才能の持主であるバカリズムさんに関しては、以前から勝手に同類(才能の有無ではなく本質的なところで)の匂いを嗅ぎ取っていた。
大喜利やトークを見ていれば言葉に対する潔癖さは明白だし、ネタも、日常の中で気になる他人の些細な(でも見逃せない)言動を意地悪く突つくところから生まれる笑いが多く、この人も「言葉尻とらえ隊」の隊員だなとこれまた勝手に思っている。
それから、いつか単独ライブ前の不安や緊張について語られていたのを聴いた時は、職種こそ違えどまさに私と同じ苦悩を持っているのだと知り、共感とともに、キャリアも実績もあって飄々と見えるバカリズムさんが?! と驚いたものだった。
お仕事小説の感想にまさかのバカリズムさん登場。だけでなく、こんなに複数の人物や作品に話が及ぶなんて、読んでいる最中には予想だにしなかった。
あとはこの性分とどう付き合っていくか。それはまた別の問題。
ということで、今回もどろーーん。