乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#123 ビジテリアン大祭  宮沢賢治著

 

 

『注文の多い料理店』を読むきっかけとなったのは宮沢賢治ベジタリアンだった(ことがある)からと書いたが、ずばりベジタリアンそのものを扱う作品もあってますます興味を持った。

ベジタリアン」ではなく「ビジテリアン」という表記も、レトロな喫茶店みたいな時代感があって可愛い。

 

 

 主人公は、ベジタリアンの大祭、いわば決起集会のような一大イベントに参加する。

 式典ではベジタリアン同士で結束を固めるとともに、敢えて反対派も招いて議論が交わされるのだけど、格式ばった大人たちが真面目にやりあえばやりあうほど笑っちゃう、そんな面白さがある。

 

 

 最近では日本でもベジタリアンが少数派ではあるもものだいぶ認知されてきているが、私がベジタリアンになった十数年前はまだ今のように理解されていなかった。

 

 久しぶりに実家に帰った夕餉の時間、もう肉も魚も食べないことにしたのだと宣言したら、肉や魚には必要な栄養があるのだと滔々と説かれ、しまいにはまさか変な宗教に入信したのではないだろうなと訝しがられ、とにかく嫌な顔をされた。

 そんなことで主義を翻すつもりもなかったので無視し続けているうちに、親の中でも認識が変わったのだろうか、今はもう同じ食卓で別々のものを用意して食べるのも当たり前になっている。

 

 

 とはいえこの小説の反対派の意見にも一理あると、ついそっちに引き込まれそうにもなったりした。

 

「私はビジテリアン諸氏の主張に対して二個条の疑問がある。

第一植物性食品の消化率が動物性食品に比して著しく小さいこと。(中略)

第二は植物性食品はどう考えても動物性食品よりも美味しくない。これは何としても否定することができない。元来食事はただ営養(原文ママ)をとる為のものでなく又一種の享楽である。享楽というよりは欠くべからざる精神爽快剤である。労働に疲れ種々の患難に包まれて意気消沈した時には或は小さな歌謡を口吟む、談笑する音楽を聴く観劇や小遠足にも出ることが大へん効果があるように食事も又一の心身回復剤である。この快楽を菜食ならば著しく減ずると思う。殊に愉快に食べたものならば実際消化もいいのだ。これをビジテリアン諸氏はどうお考であるか伺いたい。」

 

 

 消化云々はともかく、食事は即ち精神爽快剤であり、動物性食品を食べないことは快楽を減ずるというのは、確かにそうかもなあと思う。

 

 ただ、世の中の人が思っているよりも、動物性食品を含まない美味しいものはたくさんある。

 ベジタリアンだというと“サラダしか食べない人”と極端に想像する人もまだまだ多く、実際にそうなんでしょ? というようなことを訊かれたこともあるが、サラダしか食べないなんてわけはない。

 

 私の場合は「目があって捕えようとしたら逃げるものは食べない」という線引きにしているので、乳製品とか卵、蜂蜜などは摂っている。

 だから別に玄米と漬物だけの修行僧のような食生活ではないのだ。ベジタリアン用のメニューが豊富なインド料理はもちろん、マルゲリータジェノベーゼのようなパスタだって食べられるし、ジャンクなスナック菓子やスイーツ類はほぼOK(えびせんのようなものだけ避ける)。

 そしてそれらは間違いなく私の心身回復に繋がっているし、じゅうぶんに快楽を得られる。

 

 とはいえ選択肢の数でいえば圧倒的に少ないし、動物性特有のテンションをぐんと上げてくるアグレッシブな感覚はないので、動物性食品を食べた方が精神爽快剤になるのだといわれれば、もっともだとは思う。

 

 

 大祭では、互いにああ言えばこう言うのディベートが延々続き、結局落としどころはどこなのかと思っていると、急に、一気にカタがつく。

 両派の主張どちらか一方だけが正しいのではない、応酬を重ねても終わりはないテーマではあるから、そのくらいでいいのだろうな。

 

 

 個人的には自分はベジタリアンであっても他人に勧める気はないし、マックも吉牛も旨いということだって体で憶えているので、そうだよねえ、美味しいもんねえ、くらいにしか思わない。思わないけれど、目の前で肉汁をしたたらせてがっつかれれば野蛮に感じ、なんて強欲な人なんだと嫌悪感に満ちた目を光らせているのも事実。

 

 言わないだけで実は非難している(部分がある)ということを自覚しながら、その上で非難していないことにしようとしている。

 それが現時点での私のスタンスであると、この小説を読んで厳密に整理できた気がする。

 

 

 朝早くから道端で大量の唐揚げや焼き鳥が売られ、肉魚どころか虫もサソリも鰐も食べるようなこの国で、他人がどのような選択をしようと全く意に介さず、自分の選択すら意識せずにいられる日はくるのだろうか。