乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#110 1ミリの後悔もないはずがない  一木けい著

 

 なんと嘘のない、信用のできるタイトルだろう。

 これだけで、内容はともかく良書だと太鼓判を押したくなるくらいだけど、内容もちゃんと良いのだからすごい。

 

 

 最初の章『西国疾走少女』で、由井の中学時代の回想がはじまると、たちまち私の頭も十代に戻っていた。

 

 脳内に広がるのは、昭和の名作『ホットロード』とか『瞬きもせず』の世界。
 キュン♡

 

 

 映画『万引き家族』を思い出させる(あんなに人数は多くないが)ぼろくて狭い家に住む由井と、雑誌に出てきそうな生活感のない家に住む桐原。
 格差とか、そんなものは中学生の彼らには関係ないはずなのに、あまりの家庭環境の違いが危うい結末を予感させてハラハラしながら読んだ。

 若い、というより幼いといってもいいくらいの恋の真っ直ぐさが、自分にもそんな日があったとは信じられないくらい、眩しかった。

 

 

 青さと情熱でしかない恋ができるのも、大人の振りかざす綺麗ごとに傷つくのも、その年代だけにしかない天国と地獄。

 

  

 そんなことを思いながら、自ずと「後悔」について考えている。

 

  

 私のいう後悔というのは、判断の誤りを「認める」こと、それから他の選択をしなかったことを「省みる」こと。

 

「もう過ぎたことなのだから後悔してもしゃーない」と一見ポジティブな考え方は、単に誤り(だったかもしれないこと)を認めたくない意地で物事を丸めているだけ。浅はかだし、雑過ぎる。

 なぜ後悔「していないことにする」のかといえば、可哀相な人、残念な人だと思われたくないし自分でもそんなふうに思いたくないから。

 

 けれど、私たちは生きている限り、日々後悔を繰り返している。そして、「なかったこと」にはできない。

 

 小さなことでいえば、朝、曇り空を見てなんとなく怪しさを感じながらも面倒臭くて傘を持たずに家を出て、結局帰りに雨に降られれば、なぜあの時折り畳み傘を鞄に入れなかったのだろうと悔やむ。ちょっとした動作を面倒に思ったこと、リスクよりも鞄の軽さをとったことを。

 

 まあそんなことは多少雨に濡れるとか、コンビニで傘を買う数百円が出ていくとか、その程度のことでリカバーできるからいちいち後悔BOXに入れるほどのことでもない。

 

 では大きいものはといえば、私の場合、恋愛でも数々の後悔をしたことがあるし、あとは学業とか職業の選択に関すること。

 

 

『今までの人生でいちばん後悔していることは何ですか』

 私は、なんて答えるだろう。

 

 

 テレビの街頭インタビューを見ながら、過去に思いを巡らす女性が出てくる。同時に、私自身も同じ問いの答えを探している。

 

 

 真剣に勉強しなかったこと、稼ぐ力をつけなかったこと、あんな浮気野郎と結婚したこと、ダイエットをしなかったこと、いっぱい諦めてきたこと。したことへの後悔。しなかったことへの後悔。

 

 したことへの後悔/しなかったことへの後悔

 はて、私はどっちが多くて、どっちをより深く悔やむだろう。

 

 

 思い返せば、大人から「あんた、いつか後悔するよ」と言われそうなこと、もしくは実際そのように言われたことに関しては、本人的には後悔なんてこれっぽっちもしていないし、逆に「そんなこと?」というようなことをいつまでもくよくよ引きずっていたりする。

 

 

 このように、後悔というと過去に対することと捉えるのが普通だけれど、このごろ、未来に起こり得る後悔についても考えることがある。

 それは、家族と離れて暮らしていることをいつか悔いるのではないかという予感のような恐れ。

 

 日本ではない国に住む選択そのものを悔いたことはない。が、コロナ禍になってから、話は変わってきた。

 たとえば、親がコロナに感染して重症化しても、私はすぐに駆け付けることはできない。

 コロナじゃなくたってもう数字的にはじゅうぶん老人認定される年齢の両親は、いくら今のところ(こっちが驚くほど)健康を保っていたとしても、いつどんな病気になってもおかしくはない。痴呆だって、ちょっとしたことからの大怪我だって、交通事故だって、全然あり得る。

 

 何にせよどんなに急いで帰国したところで、15日も隔離されている間に親が死んだら死に目に会えないどころか葬儀にも出られず、初七日すら私は一人ホテルの中……

 そんなことを想像するだけで、もう既に私は海を越えた地にいることを悔やみ、責めても仕方がないとわかっていながら自分を責めまくってしまうのだ。

 

 とはいえ、である。

 じゃあ、「もしかしたらそうなるかも」に備えて親が元気なうちに実家に戻り、側にいるか。それも考えなくはなかったけれど、それはそれで、老人たちとの生活にうんざりして「なぜ早まってこんな生活を始めてしまったのか」と悔やむ可能性がある。大いに、ある。

 

 つまり、「後悔しないように生きましょう」というのはやっぱり嘘というか理想論で、“いずれにしたって後悔する可能性はじゅうぶんにある“前提で、それを引き受ける覚悟でいろいろと選んでいくしかないのではないか。

 

 

 まだ私は、“もしもの時”を引き受ける覚悟はできていなくて、だから想像してはうろたえている。

 本書でいうところの「失った人への後悔」の未来版「失う(かもしれない)人への後悔」を先回りしてうろたえるなんて馬鹿馬鹿しい、そう一蹴したいところだけど、「いつ、何が起こるかわからない」をまざまざと見せられている今の私は、うろたえながら、結局今日食べたいものを食べ、したいことをして、したくないことはなるべくしない、そんな時間をつなげることしかできない。