乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#117 ノルウェイの森(上)  村上春樹著

 

 

 村上春樹という作家の在り方――彼自身の意思とは離れた世間での存在の仕方――は独特だ。

 

 毎年恒例のお祭りのようになっているノーベル賞を獲るか獲らないか問題のことではない。

 とにかく好き嫌いがはっきり分かれるというのがその一つ。

「ハルキスト」と呼ばれる信者がいる一方で、「アンチ」を自称する人があちこちで批評・論争を繰り広げている。

 

 〇〇ストという呼称がつくファンといって思い浮かぶのはサユリストかハルキストくらいのもので、しかもハルキストに至っては日本国内だけでなく全世界のレベルだから、とにかく並のファンではないというのがわかる。

 どんな作家(作家だけでなくあらゆる芸術家)でも好む者とそうでない者の両方がいるのは当然だけれども、本人が存命のうちにこんなに多く絶賛されまた批判もされる作家はなかなかいない。

 

 

 かくいう私はといえば、村上春樹の小説は何作も読んでいて、その意味では好き寄りと言えるがハルキストとまではいかない、というぼんやりとした好意を抱く程度。

 だから、好きな作家として真っ先に村上春樹を挙げる人に会い、逆に強い拒絶反応を示す人にも会い、はじめはその両極端が意外だったのだけど、どうやら世の中はそうらしいとわかり、不思議な存在として興味を持っている。

 

 

 そんな私にとって初めての村上春樹がこの『ノルウェイの森』だった。

 村上といえば龍、という私が春樹に手をのばしたのは、大学のゼミで「なぜ若い女の子は村上春樹の小説に出てくるような男子が好きなのか」と話題になったことがきっかけだった。

 

 これを言ったのは私の恩師にあたる人で、お酒と女の子が大好きな先生は、その時もゼミ室で日本酒を呑みながら「こんな優柔不断な男(ノルウェイの森の主人公ワタナベ君)のどこがいいんだろうねえ。さっぱりわからない。」とぼやいていた。

 そこにいた何人かの女子学生は既にこの作品を読んでいて、「私は好き」「私も」と迷いなくワタナベ君を擁護しているのが面白くて、早速私も読んだのだった。

 

 

 最初の春樹作品としてこれを読んだのは幸運だったのかもしれない。

 そう後で思うくらい、読みやすく、なかなかいいじゃない、と思ったのを憶えている。

 

 そんな記念すべき(?)初・春樹小説を大学卒業後も何回か読み直したが、今回はかなりの年数を経ての再読となった。

 

 それで思ったのは、清潔感と品の良さが賛否の分かれ目なんじゃないかということ。

ノルウェイの森』に限らず、村上春樹の書く翻訳のような文体もそうだし、登場人物においても、どこまでも清潔あるいは潔癖と言い換えてもいいくらい乱れがない。

 とくに先生が「あんな男のどこが?」と言っていた男性たちからは荒々しい男っぽさが感じられない。

 

 清潔で上品なことは一般的には「良き」ことで、それが“洗練されている”あるいは“都会的である”という評価にも繋がる。

 でもそれこそが“鼻につく”ところであり“しゃらくさい”ところにもなり得る。

 

 

 たとえばこんな一文がある。

 

 僕は夕方風呂に入って髭を剃り、ポロシャツの上にコットンの上着を着た。

 

 大学時代のワタナベ君が、遊び慣れている先輩と夜の街に女の子を引っかけに繰り出そうという場面。

 

 まるで彼女の親に会いに行くように丁寧な身支度、に反して直前にはこう書かれている。

 

 この一週間ばかり僕の頭はひどくもやもやとしていて、誰とでもいいから寝てみたいという気分だったのだ。

 

 やろうとしていることはただのナンパなのに見た目は爽やか。

 そういうとこ! というアンチ派の野次が飛んできそう。

 

 

 こんなにも清潔感を纏いながら、直子に思いを寄せ、緑(大学の友達)とキスをし、名前も知らない女の子とも寝たりする。

 セックスもすればマスターベーションもする。するのだけど、本当に射精しているのかと疑うくらい生身の動物の性行為には見えない。

 

 こと細かな性描写が苦手だという人もいるようだけど、私はグロテスクとは別の意味で、自意識過剰な性行為に真逆の気持ち悪さを感じた。

 まるで「ていねいな暮らし」を性行為にまで持ち込んで、いいね! を欲しがっているみたい。

 

 

 良く言えば、最近では当然のようになってきている「多様性」の先駆けなのかもしれない。

 

 80年代までは、筋肉もりもりの強い男、つまりスーパーマンみたいな男性像がトップ・オブ・男らしさだったのが、そうでなくてもいい、そこを目指す必要もない、と世の中が気づき、むしろそんなのはもう古いという流れになっていく。

 

 そして90年代には小沢健二渋谷系王子となり、フェミ男が町中に溢れ、それから先は何でもありの時代になった。

 

 マッチョだけが男じゃない

 

 村上春樹(の小説)は、非マッチョ男子に光をあて、マッチョは肌に合わないわという女子の心をくすぐったのではないだろうか。

 それが爆発的な本の売れ行きになったとまではいわないが、間違いなく時代の変化に一石を投じ、受け入れられたのだと思う。

 

 ワタナベ君に雄としての魅力は感じない私とて、決して嫌いではない。

 ありていに言えば害がないし、筋肉バカのような人よりは哲学やら文学の話もできる。

 

 

 ちなみに男性読者の間では、「直子派か緑派か」という論点もあるようだ。

 私はどっちも好きになれなかったけど、そのことはまた下巻の感想で書こうかと思っている。