38歳の小説家と50を越えた先輩作家の往復書簡。
明らかに太宰治本人を思わせるこじらせた若輩者(木戸一郎)と、それを諫めたり突き放したり時に褒めたりする先輩(井原退蔵)のやり取りが全て手紙形式になってる。
木戸は自己承認欲求の塊みたいな男で、愚痴と言い訳が多いわりには隙あらば先達に噛みつく。一方の井原は冷静な大人の対応。
これ、どっちも実際は一人(太宰治)が書いているんだよなと思うと、小説という態をとりながら太宰が一人二役をこなす自虐劇に見えてくる。
君は作品の誠実を、人間の誠実と置き換えようとしています。作家で無くともいいから、誠実な人間でありたい。これはたいへん立派な言葉のように聞えますが、実は狡猾な醜悪な打算に満ち満ちている遁辞です。
「狡猾な醜悪な打算に満ち満ちている遁辞」って最上級の辛口!
君は、君自身の「かよわい」善良さを矢鱈に売込もうとしているようで、実にみっともない。
ブリっ子を見破られた時の恥ずかしさ!
君は、そんな自嘲の言葉で人に甘えて、君自身の怠惰と傲慢をごまかそうとしているだけです。ちょっと地味に見えながらも、君ほど自我の強い男はめったにありません。おそろしく復讐心の強い男のようにさえ見えます。
全部バレてる!
こんなしんどい作業、よくやったもんだと呆れるくらい徹底した突っ込みを浴びせるパイセン。きびしー。
私はこのブログで自分の過去や口に出しては言えないような黒い思惑を、いわば懺悔にも似た気持ちで書くことがある。
太宰がしているのは更にその上をゆく、お前そんなふうにしおらしいこと言ってるけどまだそこには虚偽が混じってるんじゃないのか? さらけ出しているように見せかけておきながら魂胆は別のところにあるんじゃないのか? と暴露して自嘲する行為だ。
私が度々引き合いに出す葉ちゃんと竹一(『人間失格』(同著者))のやり取りと同じことがずっと脳内で繰り広げられているのだとしたら、一体どうやって自己を保てばいいのよ。
仮に一人二役ではなく本当に師(井伏鱒二)から言われたことがあるのだとしても、文字に起こし世に出すというのは、恥すらも作品にしたい貪欲さなのか、それとも相当なマゾヒズムなのか、あるいは皮肉を含めた反撃なのか。
にしても、はじめは短い返信だった(それに対して木戸は不平不満をぐちぐちと次の手紙に綴る)ものの、井原が徐々に打ち解けていく様が見て取れるのに、嬉しがるどころか逆に遠ざけるような引きの姿勢に出るのは何。
ここでもう一度私のことに話を戻す。
先日、友人との会話で自分の中にある「謙虚さ」に触れることがあった。
私が常々「知ったかぶり」をしないように気をつけていること、気をつけていてもついやってしまう時があること、やってしまった瞬間ものすごい恥ずかしさを覚えること。
それは間違いなく謙虚な思いからではあるのだけど、謙虚さは謙虚さだけで終わらない。
自分のように慎んでいない人を見ると、無性に苛立ち、攻撃性が顔を出すのだ。
私はこうして控え目にしているのに、あなたそれやっちゃうの? あなたそれ程の人なの? と、無論直接言及はしないが、頭の中は大騒ぎ。
自分は謙虚さを保つ、ただそれだけで、他人がどうであれ構わなければいい話なのに、知ったかぶりのドヤ顔に我慢ができなくなる。
つまり私の謙虚さは100%ピュアではなく、誰かを責めるための布石にもなっている。
「つい知ったかぶりしてしまうことがあるんです。そういう時は本当に恥ずかしいんです。」
ここまでが木戸パート。
「知ったかぶりしている人を馬鹿にしています。」
これが井原パート。
君は、そんな自嘲の言葉で人に甘えて、君自身の怠惰と傲慢をごまかそうとしているだけです。
ぎゃふん。