桜桃忌の今日は、私が読んだ太宰の中でいちばん面白かった作品の感想を。
「興味深い」の方じゃなくて笑いとしての面白さ。
和子という育ちのよさげな若い女性が或る小説家に手紙を送る。
その内容に見える自意識と思い込みの強さがまず面白い。
ファンレターのようでありながらそうともいえず、とにかくひと言もの申したい、申さずにはいられない! というもので、何様だよということが上品な口調で書かれている。
私は、貴下の小説をお友だちに隠れて読んでいました。私が貴下のものを読んでいるという事が、もしお友達にわかったら、私は嘲笑せられ、人格を疑われ、絶交される事でしょう。どうか、貴下に於いても、ちょっと反省をして下さい。
そんなら読まなきゃいいじゃん、ということなのだけど、単なるアンチの罵詈雑言ではなくどうやら善意からの激励のようだ。
私は、貴下の無学あるいは文章の拙劣、あるいは人格の卑しさ、思慮の不足、頭の悪さ等、無数の欠点をみとめながらも、底に一すじの哀愁感のあるのを見つけたのです。私は、あの哀愁感を惜しみます。
にしても、貶しと褒めの割合! 9:1で貶してる。
が、和子が実際に作家に会いに行き、話は急展開する。
和子が思い込んでいたことはすべて勘違いであり、どうしようもなく恥ずかしい思いをするのだが、常々太宰はこの種の「恥ずかしさ」を意地悪くあぶり出し読者をはっとさせる。
恥にもいろいろ種類はあるけれど、過剰な自意識を見破られたときのあの恥ずかしさ。『人間失格』で竹一に「ワザ、ワザ」と指摘され恥ずかしさと恐ろしさを感じるあの場面にも通ずる、わーっと走って逃げだしたくなる恥。私もいくつか思い出してしまった。
ただ、この作品ではその羞恥をシリアスにはせずコミカルに書いているのがいい。
私がいちばん好きな描写はここ。
私は泣きたくなりました。私は何というひどい独り合点をしていたのでしょう。滅っ茶、滅茶。
滅っ茶、滅茶。って、可愛いなあ、和子。わかるよ、そういうことあるよ。若いうちはしかたないよ。
和子の痛い女ぶりと思い上がりが過ぎる行動にずっと苛々させられてきたのに、滅っ茶、滅茶。で全部チャラ。
太宰は自身の周りに何人もいたであろう「この人は私が何とかしてあげなければ……」と勝手な使命感で世話を焼く女への鬱陶しさに対する皮肉として書き、モデルは使わないと言いながら実は使っている小説家としての罪悪感を書き、さらに読み手の「思い当たる節」を想起させようとしたのだろうか……等々考えたりもしたけれど、ごちゃごちゃ言わずに面白おかしく読めばいいのだ、そう思った。