乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#118 ノルウェイの森(下)  村上春樹著

 

 

 悲劇のヒロインとサバサバ女

 

 上巻の感想の最後に男性読者の間では、「直子派か緑派か」という論点もあるようだ、と書いた。

 下巻も読み終えてから、私がどっちも好きになれなかったのはなぜか考えた。

 

 

「好きになれない」というのはかなり抑え目な言い方であって、実際は、二人の対照的な女性のどちらに対しても「嫌いやわ~」という嫌悪感を持った。

 

 

 まず直子という女性は、二十歳になるまでに数々の不幸――具体的には、幼馴染であり恋人でもあったキズキの死、姉の死――を経験している。

 だから悲劇のヒロインになるのは必然かもしれないのだけど、なんというか、男の人に「守ってあげなければ」と思わせるような寄りかかり方をするのが私の気に障る。

 

 ではなぜ気に障るのかと掘り下げればそれは明確で、自分にない素質だから。

 こんな女性に憧れはしない、が、嫉妬はする。

 この種の矛盾を自覚することはわりとあるのだけど、その度、不思議に思う。

 

 直子みたいになりたいのになれない、だから嫉妬する。それならわかりやすい。

 全然こんなふうにはなりたくない、なのに嫉妬する。これはなんだ。

 

 ないものねだりの、「ねだる」がない状態。ねだったつもりはないのに無いことを嘆くなんて、変だ。

 

 

 かと言って、直子と対極のような緑は素直に好きになれるかといえばそうでもないのだから、ヒトの心情って、そんな単純じゃないのだと改めて思う。

 

 天真爛漫で、自立していて、人目も気にせず我が道を行く緑。

「アネゴ」とか「サバサバしている」という形容がぴったりの女もまた、私にとっては鼻持ちならない存在なのだ。

 

 実生活でもそういうタイプの女性に遭遇することはままあるが、どうしてもそれを演じているように見えてしまう。

 

「サバサバしてるって言われちゃうんだよね」とさも嫌がっているふうでありながらそっちに仕向けてるのは自分だろ、みたいな人。そして、そういう自称サバ女ほど腹の中はどろどろしているのも、ここぞという時になるとこんな私だって実は弱いのよとギャップを見せてくるあざとさも、知ってるもん。もんもん。これは直子に対する嫉妬とは違う種類の、「なんかズルい!」というひがみ。

 

 で、どっちも「嫌いやわ~」となってしまう。

 

 

 と、ストーリーから離れて人物評(というか悪口)ばかりになってしまったが、物語としてはそれこそ森のような暗く湿っぽい話なので嫌いではない。

 ただ、若い人があっけなく死に過ぎる。

 もし無人島に一冊(一作)だけ持って行けるとしたらこれではない、それだけは確か。

 

 

 さて直子派でも緑派でもない、そしてワタナベ派でもない私は、この小説でいえば断然永沢派だ。

 

 上巻の感想でワタナベ君について触れた時に出てきた「遊び慣れた先輩」というのが永沢さんだ。

 

 大きな病院の息子で、何の苦もなく東大に入り、しかも容姿にも恵まれ、カリスマ性もある。つまり非の打ちどころのない男。

 ただ、私が惹かれたのはそういう外側のことではない。

 

 

永沢さんはいくつかの相反する特質をきわめて極端なかたちであわせ持った男だった。彼は時として僕でさえ感動してしまいそうなくらい優しく、それと同時におそろしく底意地がわるかった。びっくりするほど高貴な精神を持ちあわせていると同時に、どうしようもない俗物だった。(中略)この男にはこの男なりの地獄を抱えて生きているのだ。

 

  申し分のない恋人がいながら次々と女の子を引っ掛けては寝る。

 そのことを、「あんなの女遊びとも言えないよ。ただのゲームだ。誰も傷つかない」と悪びれもせず言い放つ彼は、一見傲慢で嫌な奴なのだけど、中心に通る芯は揺るぎなく、性格が良い悪いの次元を超えた圧倒的な強さを持っている。その強さが恵まれた出自によるものではなく本人の努力であること、そして努力していることを一切隠さないことで、説得力を生む。

 

 

「もちろん人生に対して恐怖を感じることはある。そんなのあたり前じゃないか。ただ俺はそういうのを前提条件としては認めない。自分の力を百パーセント発揮してやれるところまでやる。欲しいものはとるし、欲しくないものはとらない。そうやって生きていく。駄目だったら駄目になったところでまた考える。不公平な社会というのは逆に考えれば能力を発揮できる社会でもある」

 

「だからね、ときどき俺は世間を見まわして本当にうんざりするんだ。どうしてこいつらは努力というものをしないんだろう。努力もせずに不平ばかり言うんだろうってね」

 僕はあきれて永沢さんの顔を眺めた。「僕の目から見れば世の中の人々はずいぶんあくせくと身を粉にして働いているような印象を受けるんですが、僕の見方は間違っているんでしょうか?」

「あれは努力じゃなくてただの労働だ」と永沢さんは簡単に言った。「俺の言う努力というのはそういうのじゃない。努力というのはもっと主体的になされるもののことだ」

 

 

 永沢さんの言葉は、血のにじむような努力というものをしたことがなく、ただの労働を繰り返すだけで疲れた疲れたと音を上げている私に刺さる。

 

 労働が悪いのではない。

 ただ、それとは別の努力は誰でもできることではない。

 

 

 努力とか根性が美とされたのは昭和まで?

 

 

 私は、そんなことはないと思う。

「好きなことやってるだけで努力なんてしてませんよ」みたいな人もカッコいいとは思うし、うさぎ跳びや千本ノックみたいなものを肯定する気はないけれど、辛く苦しい努力を重ねて欲しいものをつかむ人はやっぱり輝いている。

 

 永沢さんのことを書いていたら、最近、YouTubeでインタビュー動画をよく見るモデルの冨永愛さんを思い出した。

 彼女もまさに努力の人で、決して謙遜せずご自身の努力をオープンに語っているのが本当に素敵。

 

 私にない素質も持ちながら憧れの対象にはなり得ない直子とは違って、永沢さんにも愛さんにも、私にはないものを持つからこそ抱く憧れと敬意を、はっきりと感じる。

 

 

「君にはどうもよくわかってないようだけれど、人が誰かを理解するのはしかるべき時期が来たからであって、その誰かが相手に理解してほしいと望んだからではない」

 

 

 努力うんぬんを抜きにして、こういう言葉が出て来る永沢という男の地獄を私は覗いてみたくて仕方がない。