婚活サイトで出会った婚約者が突然姿を消した。
彼女がほのめかしていたストーカーが絡んでいるのか、はたまた……
外枠はミステリで中身は婚活というキャッチ―なトピック。
巧妙な仕様にまんまと私も乗っかって読んだ。
とはいえ、帯に「人生で一番刺さった小説との声、続出」とある通り、読書メーターで次々投稿される「刺さりました」という感覚は、私にはなかった。
婚活していないし、した経験もする予定もないから?
否。
婚活している/していないはあまり関係ない気がする。
思うに、「刺さりました」という人はつまり自分の傲慢さに無自覚に生きてきた人。
自分はそれほど傲慢な人間ではないと信じてきたからこそ、登場人物の傲慢さを露呈されることで初めて己にも思い当たる節があることに気付いてはっとするのではないだろうか。
ディズニーランドの住人なの? というくらい、良く言えばピュアだし、皮肉を含ませるならイノセント。
それにしても、こんなに多くの人が自分が傲慢だと知らずに済んできていることに驚き、そっちの方が余程傲慢なんじゃないかと意地悪く思いながら絶えず湧いてくる「刺さりました」の声にうんざりする。
私はそんなこと知っていますよと、悟り顔でマウントを取りたいわけではない。
ただ、私は自分の傲慢な部分を嫌というほど見てきたから、否応にも自覚せざるを得なかった。
婚活はしていなくても恋愛においてはとくに傲慢だったし、その分失敗もした。
それで自己嫌悪に陥ることもあったし開き直ることもあったが、ともかく知ってはいるので、架(かける)の傲慢さに改めて動揺することはなかったし、善良の皮を被った真実(まみ)のやはり傲慢な一面にも、そういうものだろうくらいにしか思わなかった。
皆さん、謙虚だし、自己評価が低い一方で、自己愛の方はとても強いんです。傷つきたくない、変わりたくない。――高望みするわけじゃなくて、ただ、ささやかな幸せが掴みたいだけなのに、なぜ、と。
結婚相談所をやっている小野里さんというおばさんの言葉は、ちょっと見芯を食っているので、こういうところが「刺さる」のだろうなということはなんとなく理解できる。
自己評価と自己愛の微妙なニュアンスの違いを使って、「私なんて」と謙遜しながら決して妥協はしたくない最大公約数の「それな!」を誘う。
そして、「自分の傲慢さを自覚している」と言っている私こそ傲慢なんじゃないかと思わされ、これも傲慢あれも傲慢の傲慢ループが始まる。そもそも人間は傲慢な生き物だからキリがない。
しかしこのおばさんの言うことも、あてになるようなならないようなところがある。
「――婚活につきまとう、『ピンとこない』って、あれ何でしょうね」
という架の問いに対し、小野里さん曰く、
「ピンとこない、の正体は、その人が、自分につけている値段です」
「値段、という言い方が悪ければ、点数と言い換えてもいいかもしれません。その人が無意識に自分はいくら、何点とつけた点数に見合う相手が来なければ、人は、ピンとこないと言います。――私の値段はこんなに低くない。もっと高い相手でなければ、私の値段とは釣り合わない」
この部分で小野里さんに対する不信感が生まれた。
ピンとくる・こないは、そういうものではない。
もっと動物としての第六感のような、本能的なものだ。
だから理屈では説明ができないし、できないけどただどうしようもなく惹かれたりあるいはどうしても受け入れられなかったりする。俗にいう「生理的に」という感覚なんかがその一つだと思う。
小野里さんが言っているのは「打算」であって、むしろ「ピンとくる」とは真逆の、理性による損得勘定に近いことを指しているだけだ。
こういうタイプの人もまた、『夏物語』(川上未映子著)の善百合子同様、新興宗教の教祖になる資質を匂わせるので警戒してしまう。
「対して、現代の結婚がうまくいかない理由は、『傲慢さと善良さ』にあるような気がするんです」
「現代の日本は、目に見える身分差別はもうないですけれど、一人一人が自分の価値観に重きを置きすぎていて、皆さん傲慢です。その一方で、善良に生きている人ほど、親の言いつけを守り、誰かに決めてもらうことが多すぎて、“自分がない”ということになってしまう。傲慢さと善良さが、矛盾なく同じ人に存在してしまう。不思議な時代なのだと思います」
ということなのだけど、私は傲慢さよりも善良さの方がよりタチが悪いような気がする。
善良さそのものは文字通り良いことだとしても、真実みたいなさも善良のようでいて裏に保身や企みが貼り付いたものは善良っぽい何かであって善良ではない。
苦しくて、そして、悲しかった。私にこんなことをさせる、架くんが。
小説の後半は、姿を消した真実目線の部になるのだけど、のっけから、自分のとった嘘の行動について真実はこう思っている。
こんなこと(虚偽)は自分の意志であるはずなのに、架に「させられた」としているのは傲慢ではなく何だというのだろう。
もちろん、きっかけや原因の一部は彼にもあったと思うが、他にも方法はある中でその作戦を選んだのは他でもない真実だ。
真実は、進学も就職も、そして結婚相手選びまでも母親の気に入るように生きてきた女性なので、強いて誰かのせいにするならば母親のせいにすべきだ。
それだって、同じ母を持つ姉は親の敷く「ちゃんとした」レールから離脱し、自分の道を切り拓いたのだから、母親だけのせいではない。
小野里さんのいう「自分がない」にもほどがある。
善良に生きてきたのに、なぜ?
私が泣いているのに、気付いてくれないの?
相手の気を引くために嘘の演技をした挙げ句姿を消すというのは、注目を集めようとする子供そのものだ。
読書メーターで「刺さった」に次いで目を引いたのが「架の女友達がムカつく」という感想だった。
確かに、あけすけによく知りもしない他人(真実)を馬鹿にし、男友達(架)を取られる嫉妬心を剥き出しにする彼女達はスマートではない。嫌な女だと思うし、そんな女友達と親しくしてきた男と結婚なんて私はしたくないけれど、悪意を悪意として出している彼女たちの方が真実より好感が持てる。
ということで、主人公二人が結局どうなろうがどうでもよくなってしまった。
くっついたとしても近い将来うまくいかなくなるんじゃないかとまた意地悪く予測して、最終的にはこの小説が刺さらない自分が偏屈じじいのように思えてきて、なんだか嫌な気分を引きずっている。