運命というのは、何もドラマチックな非日常の出来事ではない。むしろ日常の無数の組み合わせでできている。
あの時あの店に行ったことで、5分朝寝坊したことで、雨が降ったことで、たやすく何かが始まる。
とはいえ無限の可能性の中で「私たちが出会えた奇跡☆」とロマンチックが止まらなくるのもわからなくはないし、逆に「こいつとさえ出会わなければ……」というドロドロの因縁劇があったりもする。
良くも悪くも「縁」というやつは、個々が瞬間的に意識・無意識を問わずしている選択が重なってできていき、重なりが濃い場合もあれば薄いこともある。いずれにしても一旦まじわってしまった関係はそこからじわじわと波及していく。
縁。直子が辻井さんに拾われなければ泰子とは出会わなかった。泰子と出会っていなければ、泰子を思い出すことも当然なかった。自分たちはなんの接点もないまま、ふつうに暮らしていただろう。どんな「ふつう」かわからないにせよ。(中略)
縁。智はつぶやいて、そうして底の見えない深い井戸をのぞきこんだような気分になる。
この物語では、直子という一人の女性が中心にいて、さながら台風の目のように周囲を巻き込んでいく。
根無し草のようにその場その場で拾ってくれる誰かのところに寄生してはしばらくするといなくなる、そんな暮らしをずっと繰り返し生きてきた直子。
「母親になりたいなんて一度も思ったこともなかった」と後にふり返る彼女が産んだ息子・智も、突然自分の家に現れた二人とともに暮らしたことのある泰子も、直子のせいで人生を歪められたように感じている。
今あなたがいる境遇は、すべてあなたが望んで選択したことです。あなたが引き寄せてそうなっているのです(だから良きものを引き寄せましょう)。――みたいなことを何度も聞いたり読んだりしたことがある。
コロナウィルスが世界中で猛威を振るっているこの現状でさえ、人類のネガティビティが引き寄せた結果だと説く人もいる。(他方で、生物兵器だという陰謀論が囁かれたりもしていて、人々の考え方の多様性をまざまざと見せられている気がする。)
確かに無数の選択が今の状況を作っている部分は大きいけれど、何でもかんでも自分が引き寄せたのかといえば、私はそうは思わない。
望もうが望むまいが、何かと何かと何かと何かと何かが連なって起こるし起こらない。そういうものだと思っている。
人との出会いに関しては、選択によって実りのありそうな出会いの確率を上げることはある程度はできる。
たとえば同じ趣味の人が集まるイベントへ行ってみるとか、同業者が多く参加するセミナーに行ってみるとか。逆に、避けたいと思う人とは距離をおくことも、必ずではないができる。
けれど、智のようにたまたま直子のような親を持ったことは、彼の意思や選択とはかけ離れている。そこに前世を持ち出して「それも自分の選択」だとするのはあまりに雑だと思う。
家族ではないまったくの他人もそう。
同じ電車の中にいる人は? 道を訊いてきた人は? コンビニの店員さんは? そこまで自分が選んだ結果とは思えない。それでも同じ車両のあの人と、道がわからなくて困っているこの人と、親切な店員さんと、ドラマが始まる可能性は決してゼロではない。
出会わないストーリーもまたパラレルで存在している。
コロナの影響で、私が明日乗るはずの飛行機は欠航になった。
100%私のコントロール圏外の原因によって、隣の座席に座るはずだった誰かとは出会わないし、行き先で会うかもしれなかった誰かともこのタイミングで会うことはなくなった(そしてその代わりに今いる場所で別の誰かと出会う可能性がある)。
“選択する”というのはある意味傲慢な行為で、そんなことはお構いなく万事は自然と変化し続けている。
私たちにできることは、その中で遭遇する他者や出来事(もちろん自分自身とも)とどう付き合うかであり、それが「生き様」となり「人生」になるのではないだろうか。
”引き寄せ”というものがあるのだとすれば、生き様如何で次の巡り合わせが違ってくるのかもしれない。
過ごすはずだった場所。
そこにいない私。
意図せず書き換えられたストーリーをさてどうするか。
急にありあまった時間で、とりとめもなく運命とか縁を考えるきっかけになる小説だった。