乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#61 かたちだけの愛  平野啓一郎著

 

 平野啓一郎さんといえば「分人」論者。

「個人」は、実はもっと小さな単位「分人」の集合体でできているという説は、私が学生時代に悶々と考えていたことを無駄も矛盾もなく整理してくれた。

 

 即ち、一人の人間の中に

 会社用の自分=分人A

 友人用の自分=分人B

 家族用のC、恋人用のD、……と、対人関係に合わせた複数の人格が存在している、というもの。

 

 人は誰しも「表の顔・裏の顔」「本音と建て前」のような二面性はあるものの基本的にはひとつの、つまり“統一された(あるいはされるべき)”人格で生きている、私はずっとそう信じ込んでいた。逆に統一感がないと、多重人格障害に近い不具合があるのだと。

 

 具体的には、ある時私はあまりにも自分の人格にばらつきがあることを自覚し、それがとても居心地が悪く、自分はどこか――脳とか精神が――おかしいのではないかとすら思っていた(若さ特有の自意識過剰も多分に含まれている)。

 

 さっきまであの人と接していた自分と、今この人と一緒にいる自分が到底同じ人物だと思えない。あまりにも受け答えや態度、根源的な価値観まで違っているなんてどうかしている。無意識的にその切り替えをしているのだとしたらそんな自分が自分と思えない。

 

 そのようなことを、大学で同じ哲学の講義を取っていた朝原君という友人に話した(なぜかマジメな話はいつも長文の手紙でやり取りしていた)記憶がある。

 朝原君からの返事に何と書いてあったかははっきり憶えていない。

 ただ、「とくに異常なことではない」旨が丁寧に長く書かれていたはずで、この案件はうやむやにしておくくらいの助けにはなっていたけれど、万事解決というわけでもなかった。

 

 そんな遠い過去の靄が晴れたのが、初めて平野氏の小説『空白を満たしなさい』を読んだ数年前のこと。

 

(当時読書メーターに書いた感想↓)

大学生の時に読みたかった。というのも、その頃私は、接する相手によって自分の性格や考え方、価値観まで微妙に変化することに強い違和感を覚えていた。それこそがこの著者の説く「分人」で、当時読んだらすっきり整理できていたと思う。ただ、今でも、相手が誰であれ一定の「その人」でいる(ように見える)人はブレがなく憧れる。「分人」が多いと、いくらそれらすべてが本当の自分とはいえ、結局自分はどんな人間なのか混乱を招く。気がする。

 

 

 前置き長いな(-_-;)

  

 まあそんなわけで読む前から期待値が上がってしまったのだけど、『空白を~』のような衝撃はなく、話としても全然好みではなかった。

 

  主人公・相良は、事故に遭い片脚を切断した女優を肉体的にも精神的にも支え、彼女の復活への道をともに歩みながら恋に落ちていく。

「悲劇のヒロインと正義のヒーロー」が手を取り合って数々の障害を乗り越えていくラブストーリーというだけでどうも苦手な上に、主人公がまあまあおじさん(三十代後半)なのに考えていることが情緒不安定のOLみたいで気持ち悪いったらなかった。

 

 

<恋愛>とは、よく言った言葉だと彼は思った。好きという感情に前後があるならば、なるほど、前半は<恋>で、後半は<愛>なのだろう。恋が、刹那的に激しく昂ぶって、相手を求める感情だとするならば、愛は、受け容れられた相手との関係を、永く維持するための感情に違いない。

(中略)

それは、愛に似ていながら、どこか、愛そのものではなかった。久美はそのことに、彼よりもずっと敏感に感づいていたのだろう。

そんなふうに愛の不気味の谷に沈んで、そのまま朽ちて失われる恋が、この世の中には、どれほど多く存在していることだろうか? 二人のあの一夜は、結局はその平凡な一例に過ぎなかったということだろうか?……

 

 脚を失くした久美と初めて肉体関係を持った後、本当に二人は愛し愛されているのだろうかと逡巡する相良。

 セックスした後しばらく連絡が途絶えたくらいでうだうだ煩い。

 

 

彼は今、久美といる時の自分が好きだった。他の誰といる時の自分よりも好きで、この自分なら愛せるのかもしれないという気が初めてしていた。

なぜ人は、ある人のことは愛し、別のある人のことは愛さないのか?――愛とは、相手の存在が、自らを愛させてくれることではあるまいか? 彼は今、誰よりも久美を愛していた。そして、彼女の笑顔が、自分の傍らにある時にこそ、最も快活であって欲しかった。彼女にとっての自分が、そういう存在でありたかった。

 

 

 ZARDとか聴いてそうなとこが嫌。

 

 

――と、平野氏が芥川賞選考委員になられたニュースを見た日に、すごい悪口みたいな感想を書いて申し訳ない思い。でも嫌いなのはあくまでも登場人物で、分人説を発明した著者への尊敬は全く変わらない。