前回は「スピリチュアル信者の選民思想」について少々辛いことを書いたが、それとはまったく別の観点で考えたことが過去の2回目の感想(読書メーター)にあるので、それを引用して書き足していこうと思う。
2018年4月11日の感想
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再読。他人になるべくかかわらず自己完結することで傷つかないようひっそりと生きる主人公冬子。きれい事を嫌い潔癖なまでの正直さで傷つくのを引き受けて生きる聖。対極にいるようでいて共通している「生きづらいだろうなあ」という不器用さ。じゃあどうしたら楽に生きられるの?バランスなんてとれないよ!と叫びたくなる。それとはまた別の話として、冬子が久しぶりに会った同級生・典子が(多分本人は何げなく)言った「あなたはもうわたしの人生の登場人物ではない」という台詞の恐ろしさが後に残る。
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3回目に読んだ今、これとほぼ同じ感想(とくに前半部)を持った。
もーホントに、どうすりゃいいんだよーーーー
傷つけたり傷つけられることよりも孤独を選ぶ冬子、誤魔化しで覆われた安全よりも率直な自己主張を曲げない聖、それぞれに共感と同情を覚えながら、悶絶する。
なぜならば、二重人格か! と自分に突っ込みたくなるくらい、私の中に冬子パートと聖パートがはっきり共存しているから。
まず芯の部分は完全に冬子気質。
人見知りで対人恐怖気味だし些細なことをいちいち勘ぐったりちょっとした言葉で傷つくナイーヴ(というと少し聞こえが良すぎるか)なタイプ。
かと思えば内心には聖のような激しい攻撃性を持っていて、スイッチが入るとずばずば毒を吐く。
二重人格というか内弁慶なのは今に始まったことではなく、家の中では言いたい放題、外に出れば途端にしゅーっと小さくなりひと言も口をきかない、そんな子どもがそのまま大人になったのが今の私である。
だからこの小説を読んでいると、冬子と聖は二人で一人(=私)で、両方向から見たくない自分の姿を吐露されて、私の心はズタボロになるのだ。
冬子の痛さを聖にえぐられて、へこむ。えぐっている側の聖パートにも痛さがあって、やっぱりへこむ。読んでいる間はその繰り返し。
聖は何かを考えているみたいな表情をして黙ったまま何も話さないので、もしかしたらさっきの話を愚痴というふうに受けとられたのではないかと心配になった。聖は純粋に仕事の話を――たとえば今とりかかっているゲラのことや段取りなんかについてきいていたのに、わたしがそれとは関係のない、つまり聖にとってはどうでもいいような職場の雰囲気の愚痴めいた話をしてしまったせいで、もしかしたら聖を呆れさせたか、それとも気分を害してしまったのかもしれないと思ってわたしは急に不安になった。けれど、どうすればそういうつもりで話したのではないということを伝えられるのかわたしにはわからなかった。
「会社はどうなの」と聖に訊かれ、仕事はやりがいがあるけれど会社の居心地はじつはそんなによくない、と答えただけのことで冬子はこんなにも大量の思考をめぐらせ、推測し、不安になる。
相手が聖だろうが誰だろうが、まるで小さく震える兎のように相手の顔色をうかがい怯えている冬子には、共感以上に苛々させられる。
対する聖はまさにその苛立ちを、常時冬子に、他の誰かに、世間に、自分自身に抱いている。
「でもけっきょく傷つくのがこわいのか何なのか知らないけど、安全なところからはでないでおいて相手に気持ちを汲んでもらって、それで小学生みたいなセンチメンタルにどっぷりひたって自分の欲望を美化して気持ちよくなってるのがはたからみてて、すごくいやなんだよね。きれいごとってそんなにいい? 何がいいの? 軽くみられるのがいやなの? 何か大事なものを守ってるように男にみられたいの? 誰にみられたいの? そういう自分がすきなの? 言っとくけど、それってただのグロテスクだよ」
終盤も終盤で聖が冬子に向けた怒涛の攻撃。とどめか! というくらい鋭く私にも突き刺さった。
‘うじうじ’と‘とげとげ’
この二つは真逆に見えて根っこは同じだと、この小説を読んでいるうちに気づく。
正直でいようとすること
それがそんなに悪なのかと、自己弁護も兼ねて私は問いたい。
嘘を吐きたくない。人を、そして誰より自分を欺きたくない。
そう思い、注意深く言葉を選びあるいは飲みこんで正直でいる、そのことが、相手に「傷ついた」と思わせてしまったり、何を考えているかわからない人と思われる理由になったり、小さな集団の中で浮いてしまう原因になる。
なんて理不尽な仕組みなんだ、この世の中というやつは。
だからどうすりゃいいんだよーーーー(ふりだしに戻る Σ( ̄ロ ̄lll) ガビーン)
この作品は一応恋愛小説ということになっているが、私にとってはそれどころではない。
出てくる女性たちの不器用ながらに必死で生きている姿が強烈すぎてお腹いっぱい、恋愛物語として味わう余裕はなかった。
一応少し触れておくと、途中から、冬子が三束(みつつか)さんという男性を好きになっていくのだけれど、私には三束さんの魅力も、冬子の想い(会えなくなって泣きそうになるほど濃い関係を築いたようには見えない)も、正直ぴんとこない。
奥手の冬子が恋をしたことによって、じょじょに心を開いていく過程に彼女の変化(成長)が見えるのだろうし、「光」のモチーフを最大限に使うためにも彼の存在は必要(三束さんは物理に精通している)だったと思う、でもそんな程度。三束さんのついた嘘も含めて、これを「切ない恋」とは感じなかった。
さてふりだしに戻されたはいいが……この小説には「どうすればいいか」なんて答えは書いていない。
冬子に偏っても聖に偏ってもままならない、結局バランスをどうとるかということだと思うけれど、それが簡単にできるなら今の私はこんなに苦悶していない。
魂にもカロリーメイトみたいな「バランス栄養食」があればいいのになあ。