乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#45 言葉尻とらえ隊  能町みね子著

 

 幼少の頃から言葉尻というか人の発する言葉や文字の表記がいろいろ気になってしょうがない性質でして。

 揚げ足を取るつもりはないのだけれど、違和感のある単語や言い回し、居心地の悪い文字列を見聞きするとどうにもむずむずが止まらない(こういうのも宿命の一種なのか、それとも遺伝なのか何なのか、誰か研究してくれないかな)。

 

 ともあれ世の中にはそういうタイプの人間がある一定数生息していて、その一人である能町さんがとらえてきた数々の言葉尻が集められたこの一冊、私もとらえてました! と手を挙げたくなるものばかりだった。

 

 そして私の指先が最もぴんと真っ直ぐ空を指したのは、「氣」の回。

 

 言葉‘尻’というか言葉そのものであるこの一文字を見た瞬間「ああ。それな……」と、使ったことのない若者言葉(もう古い?)が思わず漏れてしまった。

 

 

「氣」は「気」の旧字体で、意味は同じです。(中略)そこにあえて旧字の「氣」をつかう理由は、ただ「いかめしくて、もっともらしいから」としか思えない。言わば文字における権威主義だ。

「氣」の字をみたらスピリチュアルを怪しめ、と私は言い切りたい。

 

 

 この引用部分こそが、私が7、8年くらい前からずっと抱いていたこの文字(を使うこと)に対する思いの全てである。

 

『すべて真夜中の恋人たち』(川上未映子著)の感想の中に、スピリチュアルな人と知り合う機会が増えてから感じていたことを書いたが、彼らと、「気」を敢えて旧字のこれで表す人はほぼかぶっているといっていい。

 そういう人たちが私の周り(関係性の薄いつながりも含め)に結構いて、Facebookやブログに「氣」の文字を見るたびに、微かな寒々しさを感じていた。

 

 

 彼らを批判したいわけではない。

「氣」を好んで採用していようが人間的に素晴らしいと思う人はいるし、当たり前だけどこのセンスの違い一点だけで人を判断できるとは思っていない。

 

  どちらを選ぶか(あるいはまったく意識しないか)は自由だし、どちらを使っても悪くもなければ間違いでもない。

 ただ、私は「この人はこれを採用する方の人」とカテゴライズし、また警戒もしてしまう。

 

 

 「私はこっち側の人間です」

 

 

 そんなメッセージが透けて見える。

 

 

 いや、意図とか意思は理解できる。痛いほど、わかる。

「気」じゃなくて「氣」の持つニュアンスを使いたくなるその感覚。

 でもやっぱり、何らかを「アピール」しているニュアンスももれなくセットになっていることに気が付いてほしい。

 ほら、ここで私が「氣が付いてほしい」って言ったらなんだか嫌な感じ、しませんか? と言いたくなっちゃうのだ。

 

 なぜかと考えれば、「氣」は単純に旧字であるという以上に、そこで言おうとしているものによりpure(純)なspirit(スピリット)とかenergy(エナジー)が宿るような神々しさ(仰々しさでもある)を含んでいるからじゃないだろうか(きがまえ(气)の中が〆か米かという違いなのにこうも印象が変わる、恐るべし漢字の持つ力)。

 

  彼らにしてみればだからこそ使うのだろうけど、だからこそ軽はずみで使わないよう私は避け続けている。

 

 格好いい、知性を感じる、神聖な雰囲気がある、思慮深い感じがする、そんな浅い見映えや見栄のために使うのだとしたら、私のような活字潔癖症から見たら逆効果ですよ、そんな意地悪いことを密かに思っていたりもする。

  この「氣」を使いこなせるのは中村天風孫悟空元気玉を作れる人)くらいじゃなかろうか。

 

……批判したいわけではないと言い訳しながら、結局批判的になっている。自分と異なる嗜好を持つ人を否定することなく個人的な見解を書くのは本当に難しいなあ。

 

 

 

 能町さんよ、このたった一文字でこんなにも捉われてしまう私をどうか是非「とらえ隊」の隊員にしてほしい。