単行本が刊行された2000年に読んで以来の再読。
当時はようやくコンピュータが一般的な企業や家庭にも普及し、オタクではない人々もインターネットを手探りで使い始めていたくらいの時期だった。
当然まだスマホなんていうものはなくて(アンテナが伸びるガラケーを使っていた記憶)、今のようになんでもネットで調べたり多様なSNSを日常的に使うなんて考えられなかった時代(よりさらに少し前)に、村上龍はこれを書いていたのかと思うとその先見の明たるや。
新しい時代が確かに来ている
その昂りは、一億総発信時代といわれるようになった再読時(現在)に読んでも衰えず、まったく古さを感じさせない。
さすが村上龍。
なのに。
あ
れ
れ
?
?
気づいた時にはもう迷路の中。
途中、どこを境にかわからないが確実に成り行きを見失っている。
引きこもりの青年がある理由でインターネットを始めたことから物語が展開していく、という入口は広くとても親密なのに、出口までの道のりは険しく、結末まで辿り着ける者は限られている。
読む者を選ぶ小説
わたしは2000年も、2018年も、選ばれなかった。
最後まで読むことは読んだけれど、筋を見失ってから先はウエハラ(主人公)が一体何をしようとしているのかもわからなくなった迷子の状態で無理やり前進し、出口ではないどこかへ出てしまったというような始末。
引き返そうかな、でももうあの暗くて複雑なけもの道には戻りたくないな、とそのまま進んだ結果がこれである。
再々読決定
同様の現象は本作に限らず、村上龍の著書ではたびたび起こっている(例:『五分後の世界』『歌うクジラ』)。
断言するが、書き手に非はない。
読解力のない人間(つまり私)には読む資格がないだけのことで、きちんと理解したいのなら読解筋を鍛えるしかないのだ。
というわけで、ストーリーについての感想は残せないので、ここでは主人公・ウエハラについて考えたことだけメモ書き程度に記録しておきたい。
ウエハラは、何者かになりたい強い欲求と何者にもなれていない自分の狭間で苦しんでいるように見える。
昇華されない欲求が、年月を重ね、ダムのように溜まったところでネットという媒介によって突如決壊し、堰き止められていたものが一気に放出された。
何者にもなれなかった自我は、いったんキーを手に入れるとたちまち「選ばれた者」として全能になる。キーとなるものは現実だろうが幻想だろうが関係なく、要するに何でもよくて、深く溜め込んでいた分の振り幅は大きい。
ウエハラの鬱憤は『コンビニ人間』の白羽のそれに似ているが、白羽の場合は爆発的に開放(解放)する場がなく一般社会(コンビニ)で垂れ流していたから単に「変な人」と疎まれる程度で済んでいた。
私は彼らのような人たちを、「社会のゴミ」だとか「無価値なニート」とジャッジすることはできない。
私には何者かになりたいという欲求はあまりないのでその点で共鳴することはないのだけれど、日々、「生きるのはしんどい、それでもこうして生きているこの私をたまには誰か褒めてください」という小さな思いはあって、両者の根っこは同じなんじゃないかと考えている。
「難解だから読みたくない」ではなく、だからこそしがみついてでも読みたくなる。そういう小説を書ける作家は本当に限られていると思う。
私に必要なのはまず集中力、そしてそれを長時間持続させるスタミナと根気。
次こそは、という思いを燃料にしてせっせと筋トレに励もうと決意した。