乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#15 (再々読)共生虫  村上龍著

 

「いつか」を撤回して早速再々読。

 

 

 読解筋を鍛えたわけではなく、その気になれば絶対に読めるはずだと思い直してすかさず読み返してみた。

 

 

記憶に新しい入りやすい間口。

 

 

 うんうん。ここは安全。知ってる知ってる。

 

 

インターネット上のやりとりがはじまる。

 

 

 はいはい。ここも大丈夫。

 どうなるの? どうなるの? と気がはやる一番楽しいパート。

 

 

 それから生化学や脳内化学の専門的な言葉が多く出てきても、焦らない焦らないと念仏のように唱えながら落ち着いて読み、少しくらいはわからなくても話の筋さえ掴んでいれば進んで良し、見失いそうな気配があれば確認。

 

 

インターバイオに属する人物たち、ココアの女、防空壕、丘陵地帯の穴……

 

 

 こうして複雑になっていく紐が絡まらないように注意深く読んでいったら、正しい出口に辿り着いた。

「難解だ難解だ」としていたのは、専門用語のせいだけではなく執拗なまでに続く雑木林でのウエハラの行動に、就寝しかけの愚鈍な頭(おもにその状態で読んでいた)がフォローできていないだけのことだった。

 

 

 最後まで読み切った今は、「あとがき」の重さがわかる。

 

 

あるいは、社会的な希望がどうしても必要な時代は終わっているのかもしれない。社会が用意すべきはお仕着せの希望ではなく、さまざまなセイフティネットではないだろうか。すでに希望は、社会が用意するものではなく、個人が発見するものになっているのかもしれないが、そういったことは巧妙に隠蔽されている。つまり、古くて使いものにならない希望や、偽の社会的希望があふれているのだ。

 

 

 これは20世紀末の話。

 それから20年近く経った今、日本に希望はあるのだろうか。

 

「偽の社会的希望」というところで、2020年開催予定のオリンピック招致活動のことを思った。

 

 まだ3.11の傷も癒えていないまさに希望を必要としていた日本が、オリンピックを招致することで何か希望を持とうとしていたように見えた。でもそれは絶望を回復させるためというよりは絶望的状況を「なかったことにする」ための希望、つまり偽の社会的希望だったように感じた。

 

 

東京オリンピックが開催されれば日本に明るい未来がやってくる

 

 

 そんな洗脳活動に見えて、少し怖かった。

 誘致を叫ぶ人たちの必死さが、既に洗脳されている人の形相に見えて、怖かった。

 

 

 これは、当時日本に在住していなかったため3.11を実体験していない人間が外から見て感じたことでしかないが、社会が用意するべきものはオリンピックではなくてセイフティネット(震災のことに限らず)だと、心から思う。

 

 では、個人で希望は発見できるのか。

 これもまた難しい問題。

 リア充といわれるような画像を垂れ流し合うことは希望に満ちていることを当たり前だけど意味していない。

「絶望していないわたし」という殻で防御しているだけにしか過ぎない。

 

 

 偽の希望を必要としていない人々が引きこもるか海を越えて脱出するかの二極化になってしまったら日本は一体どうなるんだと、脱出した先で考えている無責任な私である。

 

 オリンピックで元気をもらう人

 何らかの経済効果のある人

 とにかくニッポン! な人

 

 さまざまだと思う。

 私はオリンピックとなると急に愛国心が湧くなんていうこともなく、多分ふつうに過ごす予定デス。