乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#104 「こだわり」を捨てる  小林信源著

 

  

 思い返せばこの数年の間、慢性的な鬱状態が続いていた。

 心の不調がイコール鬱ではないし、すぐに「鬱だ鬱だ」と診断する医者、あるいは自称する人は危険だし信用できない。

 と、基本的にはそう思っていたのだけれど、鬱“状態”であることは自分でも認めざるを得ないくらい不安と緊張に苛まれていた。

 

 不安がある時ほど内面で起こっていることをメモしておく習慣が私にはあるので、その頃の闇ノートには、なぜ、何に、どういう角度で、心がぎゅっと絞られるのかがびっしり書かれている。

 また、不安そのものだけでなく付随して自分を苛立たせる物(者)への不満や、そこからいかにして離れればいいのかあれこれ対処しようとしている様も剥き出しに綴っているので、とても人に見せられたもんじゃない。

 

  コロナが発生したことも重なって闇ノートの闇はより濃く暗くなっていった。

 ただ、鬱状態はコロナ以前から始まっていたことで、コロナは内省を深めるきっかけにしかすぎない。

 

 心と体は繋がってるから当然体にも不調が表れる。寝つきが悪い、寝ても眠りが浅い、胃が痛い、お腹を下す、他人のたてる物音に過敏になる、数え上げたらきりがないくらいの症状が出ていた。

 心の面でいえば、何にも関心が持てない、楽しいと思えることがほとんどない、人と話すのが億劫である、希望が持てず虚無感が強い、などとにかくよろしくない。

 

 

 本書は、こういった暗いトンネルから抜け出すにはどうすれば良いのかを九つのステップで示している。とくに、不安に襲われている時の心(意識)を、不安が不安を呼ぶ「入れ子構造」として説明しているところはとてもわかりやすく腑に落ちた。

 

 

不安な自分の心をもう一人の自分の心が眺めて、「なぜなんだ、なぜおまえはそんなに不安なのだ?」と語りかけ問いかけることで、ますます不安になっていくという仕組みです。不安の原因に対して不安を抱くのではなく、不安に思っている自分の心に対して不安を抱くのです。

 

 不安で仕方がない真っ只中にいたら、そうそうそうそう、これ私! と「誰かにわかってもらえた」思いになるだろうし、少し過ぎた時点から見れば、「あの時の私」を俯瞰で見直す参考になる。

 たまたま友人が送ってくれたのが後者のタイミングだったので、私にとっては今刺さるというよりは、近い過去を振り返るのに丁度いい参考書になった。

 

 

 で、概ねなるほどと頷きながら読んだわけだけど、第3章(世間の常識にこだわらない――破法遍)の事例として出てくるK君とのやり取りにはちょっと引っかかるものがあった。

 

 K君は、将来に漠然とした恐れを持ち、不眠症からパニック障害を起こして著者(住職)のお寺にやって来た青年。彼は、周りの友達はバリバリ仕事をしているのに自分は会社も辞めなければならず、それでも妻子を養わなければならず、人生のどん底にいると思っている。

 

 そのK君と山に登った時に、著者はこう言う。

 

「苦しいほうを取れ。きつい道を選びなさい。きっとそちらのほうが何か得るところがあるはずだ。楽な山道を歩いていたら、自然薯は見つからなかった。人生も同じ。あの道かこの道に行くべきか。本気で迷ったときは、自分にとって苦しい道のほうを選ぶべきだ。これが破法遍の教えなのだよ」

 

 

 これはもうさすがに古いよね? と、即座に思った。

 

 この本が書かれたのは2002年だから、仕方がないといえば仕方がない。

 まだ「苦労は買ってでもせよ」的な考え方が信仰され、人々はせっせと働き、稼ぎ、良い暮らしをしたいと望んでいた時代。

 既に新卒で入った大企業をあっさり辞めて、行き当たりばったりみたいな暮らしをしていた私は、周りの大人たちからはさんざんな批判的な言葉を浴びせられていたっけ。

 険しい道にこそ学ぶものがあるという昭和の耐え忍ぶ文化、演歌の世界で生きてきた彼らの世代が社会の中心だった頃には、著者の言葉もマッチしていただろう。

 

 

 でも今は2021年、風の時代ですから(笑)

 

 神は乗り越えられない試練はお与えにならないとは言うが、日常生活に支障を来すくらい苦しいのなら、そして他にも選択肢があるのならば、さっさと道を変えてもいいはずだ。

 

 敢えて苦しい方を、というのは日本人が好みそうな逆説的美学だし、確かにそこで得られる経験値とか進歩とか何かしらの力とかはある。

 

 

 けれど、なんたって風の時代なんです(笑)

 

 

 風の時代って言いたいだけかい!

 

 

 昨年の終わり頃からメディアやSNSでやたらと囁かれているこのワードを、実は一回使ってみたかった(笑)

 

 私は実際に地の時代から風の時代になることよりも、それを語る人の表情の方に興味が湧く。

 

 さあ始まりますよ! と声高に唱える人がいるかと思えば、風の時代? 何それ? と無頓着な人もいて、捉え方は千差万別。

 

 個人的には、ちょっと笑いを含んでいるくらいがちょうどよく、自分で使う場合もやっぱり(笑)付きになってしまう。

 決してバカにしているわけではなくて、でも真顔でもいられない、心のどこかでまあまあまあまあ、と距離を取らせるような響きがある。

  

 これまでの価値観を全否定するのも、新しい時代に移り変わることに拒絶反応を示すのも、どちらもしっくりこない。

 

 というのも、何の時代とか関係なく私はずっと生きづらさを感じると同時にできるだけ生きづらくない方向・方法を模索してきた。はっきり言って、何時代でも関係ないのだ。

 

 

 だから、風の時代だと大騒ぎするのは、どういうニュアンスでも私にとっては物珍しく映り、見ていて面白い。

 

 

 横道に逸れたが、楽なほうを選ぶことも時に必要だと、私は今実感としてあるので、K君のような人に、家族のためにもそこに留まるべし、とは思えない。

 

 

 なんて、すっかり心身の健康を取り戻したかのように言っているけれど、第7章(「治った」と思ったときは、まだ治っていない――知次位)にはまだまだ油断はできないなと思い直すことが厳しく書かれていた。

 

「いまだ得ざるを得たると言う」

 

 最近の私は、胃が痛くなるような出来事のない日常を慈しみ、快眠快便のありがたみを噛みしめ、些細な幸福感を取りこぼさないように生きている。

 が、本当に自然体であれば、そんなことすら意識をしないのだという。

 つまり私は今「知次位」の段階で、完全に治った「真位」の手前にいることになる。

 

 

「知次位を知る」

 

 

 はしゃがず。騒がず。自己言及への「こだわり」を捨てる。これが当面の目指すところだと、久しぶりに開いたノートを見ながらそう思った。