太宰の陰で地味に継続している林芙美子祭り。
この短編の主人公・きんは、老いに本気で向き合い始めてたかだか数年の私より一回りくらい年上の女性で、先輩の行動に度肝を抜かれたり手ほどきを受けているような心持ちになったりしながら読んだ。
自身の顔や体を鏡で、または直に見ては落胆する。それは今まさに私が毎日のようにしていることで、いっそおばさんをすっ飛ばしてお婆さんになってしまいたいと思うほど。
しかし56歳のきんパイセンは、そんな境地には陥っていないようだ。
まだ、男は出来る。それだけが人生の力頼みのやうな気がした。
現役ばりばりの肉食女子!
年相応のファッション(着物)、メイク、爪のケアに至るまで余念がないきんを、痛いBBAと見るか、いつまでも女を捨てない女性の鏡と見るか、ここは大きく分かれるところだ。
私は後者で、年を追う毎に簡略化をたどる我が身の怠慢を反省しきり。
きんは女である事を忘れたくないのだ。世間の老婆の薄汚さになるのならば死んだ方がましなのである。
若さや美しさを保つモチベーションは、結局異性の目線あってこそなのだろうか。
そんなこととは関係なく、単純に「自分比」で衰えた箇所を見つけては落ち込む私だから、きんのように努力もせず「まあ仕方あるまい」と思う(思おうとしている)ことができているのかもしれない。
物語は、このきんパイセンが、急に尋ねてくるという昔の男を待っているところからはじまり、親子ほど年下の元彼をがっかりさせてはならぬと身づくろいをしている。
気合い十分に戦闘態勢に入るプロセスが生々しく、準備がぬかりなければないほど本人の真剣みと裏腹に滑稽に見えてくるのが面白い。
そこまでして挑んだきんであるが、ようやく現れた男(田部)と対峙してみれば、それまでの意気揚々としていた心はしおしおと萎んでいく。
二人の長い空白が、きんには現実に逢つてみるとちぐはぐな気がする。さうしたちぐはぐな思ひが、きんにはもどかしく淋しかつた。どうにも昔のやうに心が燃えてゆかないのだ。
ああ、あの感じは「ちぐはぐ」だったんだ。
過去の人に、何年もの時間をおいて会ったときの、苦くもないけど甘くもないなんとも形容し難い落ち着きのなさはまさに「ちぐはぐ」だった。
人の記憶というものは不思議なもので、時が経つにつれ薄れゆく過去のデータはいつしか消えるというよりは、薄まりを補うかのように改ざんされる。
とくにかつての恋人のこととなると、いいように塗り替えられるか逆に思い出したくもない黒歴史として固まっていく。
そうして甘やかな記憶となった恋人にもう一度会いたいという淡い衝動も芽生えて実際会ってみたりしても、期待していたようなことは起こらない。
田部の場合は当時より成り下がっているのだが、仮に立派になっていても変わらないと思う。
ただ、二人の間にあった熱いものはもうないのだという変わりようのない事実だけがあって、虚しさをもたらす。
そこらへんの言語化しにくいもやもやも、著者はきっちりと文章に落としている。
長い歳月に晒されたと云ふ事が、複雑な感情をお互ひの胸の中にたゝみこんでしまつた。昔のあのなつかしさはもう二度と再び戻つては来ないほど、二人とも並行して年を取つて来たのだ。二人は黙つたまゝ現在を比較しあつてゐる。幻滅の輪の中に沈み込んでしまつてゐる。二人は複雑な疲れ方で逢つてゐるのだ。
「二人は複雑な疲れ方で逢つてゐる」
これだ。悲しいくらいに、これなのだ。
よくいわれる「女の方が現実的だ」というのは真理をついていて、女は現実にかえるのが早い。
一方、男は現実から目を背け、あわよくばと下心――肉体だったり金だったり――をいつまでも燻らせる。
私は女性としては過去を引きずる方で、いつまでも思い出に浸る傾向が強いことを自覚しているのだけれど、二人の決定的な差異がくっきりと浮かび上がるラストで、終わったことは終わったこと、過去は過去、さあ前を向いてゆきましょう、そんな先輩の教えを乞うた気がする。