アンソロジーを読むのはたまたま好きな作家の名をその中に見つけた時くらいで、数年に一度くらい。
全員好きということはまずなくて、あまり相性の良くない作家や全く知らない作家も混じっていることがほとんどなので、好きな作家以外はハズレというリスクと新たな発見があるかもしれないというリターンの両面がある。
今回は伊坂幸太郎目当てで手にした『Story Seller』(新潮社ストーリーセラー編集部編)の中で、最ももやもやとした作品を取り上げてみようと思う。
この著者に関しては、何作かが積読本(最後まで読めずに挫折したまま)になっているし、’ともや’じゃなくて’ゆうや’と読むのも知らなかったし、島本理生さんの夫ということもそういえばテレビで見たけど忘れていた、そんなレベルの知識。
なので、特段期待もなければ先入観もない、フラットな気持ちで読んだのだけれど……
話の全体像はわかるし先が気になってぐんぐん読むのに核心に近づくとはぐらかされて置いてけぼり。え、何。あれ、ちょっとまって。ま、いっか。いや……どういうこと? 自分が大事な箇所を読み逃しているのかと行きつ戻りつ、でもやっぱりキモ(というか、ここキモだよね? という部分)は絶対にぼかされている。
もう少し具体的にいえば、主人公の過去に何らかの秘密があるはずで、それ故の思考や言動が何度も出てくるのにいつまでたってもはっきりとは明かされない。
わかるのは、殺人経験があるらしいことと現在は戸籍を変えてひっそりと生きていること。
なのに、「いつ」「なぜ」「どうやって」「誰を」などのディテールは書かれておらず謎のまま。
これは敢えて読者に想像させようという手法なのだろうか。
しかし。
読み終わってからこれがシリーズ(444の何とか、555の何とか……)として続く一作目だと知って、軽い詐欺に遭ったような気分になった。
斬新な手法ではなく、のちに続くシリーズのどこかで種明かしをするために333では曖昧に書かれていただけのこと? だとしたら、それは手法ではなくて手口だし、どうにか読み取ろうとしたのが馬鹿みたく思える。アンソロジーで、「読み切り・書き下ろし」と謳うなら、その後の繋がり関係なく理解できるようになっていないとダメじゃないの?
心の中でブーイング班がブーブー言う。にもかかわらず、最終的には嫌いになっていない(どころか好きだと思う)のは、この人の書く本質的なところに惹かれたからだ。
だが本当に優秀な人間は、こんな場所で人を殺さないし、そもそも人を殺したりしない。
人を殺す際に生じる大量すぎるデメリットを想像できなくなった人間が、もうその時点で優秀ではなくなっていることに気づかない者は意外と多い。
本当に聡明で、本当に冷静で、本当に優秀なのは、人をすぐに殺したりしない普通の人々ということに気づかない者は意外と多い。
短絡的意見なのは承知だが、映画やワイドショーがその原因の筆頭だろう。ドラマにドラマが重なり、イベントにイベントが重なり、ストーリーにストーリーが重なり、それがさらに重なったようなものばかり観ていれば頭がおかしくなるのは当然だし、政治と殺人とスキャンダルと妊娠騒動とペットと節約術を同系列に流す映像ばかり観ていれば脳が駄目になるのもこれまた当然だ。
冗談のような真実と真実のような冗談しか存在しない亡国の中で、普通に生きる。
その強さと図太さをもっと自覚し、自慢するべきだ。
「政治と殺人とスキャンダルと妊娠騒動とペットと節約術を同系列に流す映像ばかり」にまみれたこの世界で「普通」でいられることは強さ・図太さである、というのは本当に同意しかない。
「鈍感力」と言い換えてもよさそうなその能力を、持っていない者は羨望と軽蔑の両方が入り混じった目で見ている。少なくとも、私はそうだ。
鈍感になれたらもっと楽に生きられるのに、という羨ましさ。同時にそんな鈍感な人間にはなりたくない、という蔑み。二つの矛盾する感情の割合は3:7くらいで、結局「鈍感になりきれないこの私」を愛している。
だから「自慢するべき」というのは最大級の皮肉と受け取ったし、それでスカッと爽快な気分になったのだ。軽い詐欺を帳消しにできるくらい。
ただし、この引用部もやはり主人公の隠された過去と繋がる描写で、過去を抹消して「普通に」生きている(らしい)人物がいっていることなので私の受け取り方と主人公にとっての「普通」の意味は別ものではある。
が、著者の中には私の持つのと同類の嫉妬や揶揄が混在しているのではないだろうか。
悔しいけれど、これを機にシリーズを制覇して佐藤友哉が何を言わんとしているのかを知りたくなっている。(完敗!)