乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#22 メリイクリスマス  太宰治著

 

 新年一発目にどうかと思うタイトルだけど、読んじゃったものはしょうがない。

 そもそも自分の記録用としてやっている零細ブログなので、自分さえ良ければ何でもいいんだった。

   

 

 さて、以前『チャンス』を読んで、「あの太宰が恋愛をディスってる!」としてこんなことを書いた。以下は、当時の私の感想。

 

 

恋愛なんてそんな綺麗なもんじゃないだろー! と憤っているようでありながら、その実、彼こそがそれを神聖なものとみていて、神聖なものとしたくて、神聖であると信じたくて、だからグロテスクな慾望を隠すための言葉として蔓延していることが我慢ならない。キャッチーに使ってくれるなよ。そんな遠吠えみたいだ。

 

 

 恋多き男のイメージが強い太宰ではあるが、実は純粋な恋愛に焦がれているのではないかと感じてこう書いたのだけれども、この『メリイクリスマス』を読むと、そうでもないぞと思い直した。

(ちなみにこの作品は短編小説ということになっているけど、ほぼ実話と思われる)

 

 

昔、追い回した事はあるが、今では少しもそのひとを好きでない、そんな女のひとと逢うのは最大の因である。そうして私には、そんな女がたくさんあるのだ。いや、そんな女ばかりと言ってよい。

 

  

 女を追うことはあっても心からではないご様子。

「追い回す」というとさぞ入れ込んでいるようにきこえなくもないが、太宰に於いては「気まぐれな冷やかし」のニュアンスが色濃く、ある日突然、やはり気まぐれにその熱量が失われていそう。

 

 

そうして、そのひとは、私の思い出の女のひとの中で、いまだしぬけに逢っても、私が恐怖困惑せずにすむ極めて稀な、いやいや、唯一、と言ってもいいくらいのひとであった。  

  

 ある女性だけが再会しても大丈夫な「唯一のひと」になりえた理由を四つ挙げているうちの二つ目(↓)がすごい。

 

そのひとは少しも私に惚れていない事であった。そうして私もまた、少しもそのひとに惚れていないのである。性慾に就いての、あのどぎまぎした、いやらしくめんどうな、思いやりだか自惚れだか、気を引いてみるとか、ひとり角力(ずもう)とか、何が何やら十年一日どころか千年一日の如き陳腐な男女闘争をせずともよかった。

 

 

 

こじらせ男子か!

 

 

 

 

 ガチで向き合う(惚れ合う)恋愛経験の中で相当痛い目を見て、だったらもう惚れないし、惚れられたくもないという極論に走るというこじらせ方。

 

 

もううんざりなんだよー こりごりだよー

 

 

 確かに人間関係のなかでも恋愛というのはとくに面倒臭いし、精神も肉体もすり減らすし、いい時と悪い時の落差に激しく揺さぶられるものだ。だからそれに辟易するのも絶望するのも、わかる。ただ、それで恋愛=性慾というのはいささか端的過ぎだし被害妄想も多分に含まれている気がするけど。

 

 

 こういうのって、どちらかというと弄ばれる(一般的には女性)側の猜疑心で、太宰はその辺が女性的というか受け身の人なんだなあ、としみじみ思いつつ、だったら女のいない(少ない)世界に行けばいいのに、むしろ女のいるところ(酒場とか)に自ら近づき結局女なしでは生きられない彼の業を感じる。

 そしてその矛盾の中にこそこじらせの元があるようにも思う(単に酒>女、という可能性も大)。

 

  

『チャンス』も同様、恋愛をディスりながら神聖なものと信じているのではなく、彼にとっては恋愛なんて「本気でしたらまじ怪我するし!」という恐ろしいものであって、だからあんなに否定的にぶつくさ言っていたんだな、と今にして思う。

 

 

 

面倒臭い奴だなー

 

 

 でも、だからこそ後世に残るような作品を生み出し多くの人に今なお影響を与え続けているのだろう。

 そして私も、少なからず彼の持つ面倒臭さに己を重ね、共感し、安心し、反省する人間の一人である。