アンソニーではなくテリィが好き。聖子派ではなく断然明菜派。流川じゃなくて三井。ハットリくんよりケムマキくん。
物心ついたときにはもう王道から外れまくっていた私。
最近よく聞く「逆張り」なんていう意図的なものが芽生えるもっともっと前の幼い感覚で選ぶものがことごとく「ちょっと悪」で「ちょっと不幸」な傾向にあった。
これって何で決まるの? 生まれつき? なんて話を3年ぶりの一時帰国中に友人としていた。
なんでそんな話になったかといえば、そこが中野ブロードウェイという素晴らしきオタクワールドだったから。
懐かしのキャラクターグッズを見ては歓声をあげるおばさん二人が、「あの時点で既にアンソニーではなかった私達」について語らっちゃう、そういうことがごく自然に発生する場なのだ。(友人は聖子派だったのは意外だった。テリィ派=明菜派ではないらしい。)
そして、シンデレラよりも人魚姫が好きだったことは『ナラタージュ』(島本理生著)の感想にも書いた通り。
絵本でしか読んでいなかった『人魚姫』の記憶は「報われない悲恋のヒロイン」だった。
改めて原作を読んだら、確かに悲恋には悲恋なのだけど、その悲しさは子供にはわからない種類のものだと思った。
15歳になって海の上の世界を見ることを許されたひいさま(人魚姫)が、たまたま嵐で沈みかけた船から王子を助ける。
ひいさまが浜まで運んだおかげで王子は命をとりとめるも、自分を助けてくれたのがひいさまであることを知らないまま目を覚ます。
あのとき、あの方のおつむりは、なんておだやかにあたしの胸のうえにのっていたことかしら、それをあたしはどんなに心をこめて、ほおずりしてあげたことかしらとおもっていました。そのくせ、王子のほうでは、むろんそういうことをまるで知りませんでした。つい、夢にすらみてくれないのです。
「そのくせ」という接続詞に、誰が助けてやったと思ってるんだ! と見返りを求める欲深さと、見返りがないことへの恨みが滲み出ていてちょっと怖い。
でも、わかるよ。
その傲慢さはまだ愛とは呼べないけれど、恋ってそういうものだもの。
初めて上った海の上で、イケメン! と一目惚れした人の命を救ったんだから、そりゃ気付いてほしいし、なんなら得したいのはとても素直な人間らしい心。(あ、人間じゃなかった。でも半分魚だって、そういう欲望があってもおかしくはない。)
さてここで、当の王子がそんなに魅力的なのか問題が出てくる。
王子は、心のすなおな、かわいいこどもをかわいがるように、ひいさまをかわいがりました。けれど、このひいさまを、お妃がしようなんということは、まるっきりこころにうかんだことがありません。
かわいがるだけかわいがっておきながら、結婚する気はないという王子。WHY?!
「そうとも、いちばんかわいいとも。」と王子はいいました。
その気はないのにかわいいと言う。思わせぶりってこういうこと、という見本のような男だな。
そんな王子の心にあるのは、自分を助けてくれたと勘違いしている別のむすめ。
ところが、そのうちに、王子がいよいよ結婚することになった、おとなりの王国のきれいなお姫さまをお妃にむかえることになった、といううわさが立ちました。
いちばんかわいいひいさまでも、「ぼくのこの世の中で好きだとおもったただひとりのむすめ」でもなく、あっさり政略結婚決定。
恋愛と結婚は別ですか。
だが、ぼくはそのお姫さまが好きにはなれまいよ。(中略)そのうち、どうしてもおよめえらびをしなければならなかったら、ぼくはいっそおまえをえらぶよ。(中略)こういって、王子は、ひいさまのあかいくちびるにくちをつけました。
王子よ、ちょっと待て。
これはあんまりじゃなかろうか。
5人の姉とか婆さん人魚と暮らし、男といえば人魚の王である父親しか知らないひいさまには刺激強過ぎ。
こんな都合よく扱ってくるチャラ男のために足の痛みに耐え声を捧げる必要なんて全然なかったよ!
とはならず、生娘は生娘らしくそれでも王子を思い続けてしまう。
そしていつしか恋は愛に変わり……
世間を知らず、変な男にいれあげちゃった女の末路ってこういうものか。
切ない。
これが、大人になった私から見た「悲恋」だった。