気まぐれにコラム集を読んでみたが、折々面白く、またそうでもないところもちょいちょいあった。
そうでもなかった部分は、掲載していたのが漫画誌『モーニング』で、その読者層と私に相通ずるものがほとんどないから?
いや、違う。そういう問題じゃない。
私は本谷有希子の小説には大いに興味があるけれど、彼女の日々の生活にはとくに関心もないので、そのへんのところは「ふーん」という以上の感情が湧かなかった。
そもそも本谷さんに限らず、基本的に他人の日記のようなもの――この間、こんなことがあって、こうなってこうなってこう思った、みたいな文章――に、興味がないんだった。
けれども単なる出来事以外のところからは本谷さんの根本的な思考癖が垣間見え、意外にも私との共通する部分がいくつもあり興味深く読み耽った。
本谷さんの場合、どうしても小説に出てくる登場人物たちの‘イッちゃってる’イメージが強くて、彼らと著者自身は別だとわかっていながらも彼女の脳内もぶっ飛んだ要素でできているんじゃないかという先入観がはたらいてしまう。
そのことはご本人も自覚されているようで(よく言われるらしい)、「でもそうじゃないんです」という切り口からの話はとても新鮮だった。
その中の一つが、「苦労癖」というタイトルの回。
世の中は楽をしていたい者と、苦労していたい者で成り立っているんですと。
私はと言えばちゃらんぽらんに見えて、俄然後者側の人間だったりするのだが、最近それはそれで損しているように思えてしょーがない。
嗚呼。。。
これは、私がここ一年ほどずっと考えていたこと(そしてあまり考えないようにしていたこと)じゃないか!
本谷さんの知り合いは、この二種類を「寒いところで育ったかどうか」が関係している説を唱えているらしい。
寒いところで育つ⇒苦労していたい者
暑いところで育つ⇒楽していたい者
この分類は、沖縄の人や日本以外でも南国の人々がなんとなく悩みがなさそうで楽天的に見えるのと同様、確かにそんな感じもするのだけれど、私個人には当てはまっていない。
私が育ったのは、雪が降ると「10年ぶりの観測!」とトップニュースになるような温暖な地域。なのに。苦労癖がすごい。すごいんじゃー。
さすがに買ってまでして苦労したいとは全然思わないけど、楽だと落ち着かない罪悪感に似た感覚があって、でもそれは絶対に損だということも思っていて、それでもやっぱり楽したいなあ、と、それで思い切って楽してみたはいいけど、結局何かしら苦労の種を自分で蒔いちゃったり……とぐるぐる回るエンドレスループ。こんな自分が面倒臭い!
で、最も大きく首を縦に振り振りしたくなったのは最後の締めくくり方。
すべてが分からなくなってきたので、この件についてはそろそろ考えることを放棄します。どろーん。
そうなのそうなの、私もこの件については深くは考えたくないの。
ということで、どろーん。