『坂の途中の家』(角田光代著)では一度目に読んだときと二度目とで同じ感覚があったのでそこを追求していったのだが、こちらは一度目と二度目でまったく受け取り方が違った話。
一度目がいつだったかは、はっきり憶えていない。
感想も、「あのレズシーンは要らない」ということだけが鮮明に残っているだけで、あとはほとんど記憶にない。
そんな程度だったからまさか再読するとは思ってもいなかったのに、本が、私のもとへやってきた。
それも、完璧としかいいようのないタイミングで。
というのも、私の置かれた状況がそのまま物語に嵌まってしまっていたからだ。
たまたまインドという地にいたせいもあって、普段はほとんど意識することのない神の存在すら感じてしまうくらいだった。
私は本を読みながら線や文字を書き込んだり付箋を貼り付ける習慣はないのだけれど、この本には都合8枚の付箋と付随するメモ書きがある。
二度目のときに、そうせずにはいられなかった。
「私の置かれた状況」をこと細かに説明するには中編小説一冊分くらいの文字数が必要になるので、ぜんぶは書かない。書かないが、いうなれば、登場人物の一人に(もしかしたら過剰に)己を見い出し、あまり見たくなくて隠しておいた鏡をやっぱり気になって覗いてしまうような感じ。
そうして見はじめたらもう微に入り細に入り見てしまう人間の性(さが)。
すると自分だけでなく、小説の中の彼女の周りにいるこの人もあの人も、今私のそばにいるあの人とこの人にぴったりと重なる。
なんなんだ、これは。
感動とおり越して愕然とした。
過去の反省と未来への希望を現在の私という器でひとつひとつ確認する作業は、楽しさ(未来への希望は、自由だ)よりも苦しさ(過去は変えられない)が勝る。
抽象的すぎるので、「次のページでギャー」という付箋が貼られた、「ギャー」の箇所を引用する。
ほんとうにごめん、そこまで愛せなかった、と私はまたも申し訳なく思った。
ちどりほどにも愛していなかった。
なぜ私が元夫よりちどりを愛せるかというと、彼女のことを尊敬しているからだ。その生き方を、だれも見ていないときにも貫いている信念を。
でも、彼は男だからその面は女より弱かったのかもしれない。
(中略)
そこを好きになれたりただ楽しめたり、あるいはうんと尊敬できたら、続けられたかもしれなかったけど、そこは私にとってはどうにも価値のないポイントだったのだ。
これは、主人公(タイトルになっているちどりの従姉妹)が、十年いっしょにいて離婚したばかりの元夫のことを回想している場面。
これを読んだほんの数日前、私も、夫ではないが腐れ縁のようにかかわっていた男性とこれからもいっしょに生きていくのか・いかないのかの瀬戸際にいた。そしてまさに、「彼の売りポイントは私にとってまったく価値がなく」、「彼を尊敬する気持ちがない」ということに気づいたところで、その事実を伝えなければならないことに心を痛めている、そんな状況だった。
しかも、私がその相手と出会ってから、ちょうど十年だった。怖っ。
いうまでもないが、どんなに自己投影し得る内容であっても、小説は小説。現実は現実。私は私。どこまでいっても、それは変わらない。
でも、現実の、現在進行形の私が、胸中を冷静に観察し、整理し、見過ごしていたことを掬っていく手助けに、小説はなり得ると私は信じている。
人生には、「今、読むべくして読む本」というのがたしかに存在するんだということを改めて感じる一冊だった。