読んでいる間、ずっと消えないざらりとした感覚。
その正体がつかめないまま読み終わった。
二回読んだけれど、やっぱり同じ感覚が残った。
この小説は、おおまかにいえば、乳幼児虐待死事件の補充裁判員になった主人公・里沙子が娘(3歳)を義父母に預けながら裁判所に通う十日間の話である。
出産後ほとんどを「家」という閉じられた小さな世界で過ごしていた彼女は、突然「裁判所」という特殊な社会へ放り込まれる形で十日間を過ごす。
裁判が進んでいく中、生後8か月の娘を虐待死させた被告人である女性に自身を重ね、同化すらしていき、混乱し、最終的には自分(および家族)を見つめ直すことになる。
私は終始、善良そうに見えながらまったくデリカシーも優しさも感じられない里沙子の夫に苛立ち姑を鬱陶しく感じ駄々をこね泣き叫ぶ娘を憎むほど、里沙子に寄り添っていた。
が、これは共感ではない。
私は結婚もしていないし子も持たないので、「あるある」ではないのだ。
それなのにこの感情のどこかに引っかってとれないものは一体なんなんだろう。
せっかくなので、この感覚を放置せず突き止めることにした。
その結果私が出した答えは・・・
主人公である里沙子は娘(文香・3歳)のことがあまり好きではない
さらに、
夫(陽一郎)のことが全然好きではない
そして、この二点を認めていないことこそが、彼女の思考や行動、それから周囲とのかかわり方のすべてを捻じ曲げているのだ。
だから、違和感がある。
その違和感が、ざらざらした感触でもって引っかかるのだ。
ではなぜ彼女は認めない(というか、ほとんど自覚すらしていない)のか。
それは、社会で根強く信仰される「母性幻想」のせいではないだろうか。
すべての母親(女性)にはもれなく母性というものが備わっていて、我が子を愛するのは当たり前という幻想。
腹を痛めて産んだ子を愛せない母親は、なんらかの欠陥があるということになり、「母親失格」のレッテルを貼られる。
その幻想があまりにも世間一般に普及しているため、母親となった女性たちはなんの疑問も持たずに「我が子を愛さなければいけない」「良い母にならなくてはいけない」と自らにプレッシャーをかけてしまう。
周りの人間(おもに夫、それから夫婦両方の親)は、あるいはそれ以上の重圧を押し付けてくることも少なくないだろう。ときには無言で、ときには残酷な言葉を駆使して。
前述のとおり私は出産経験がないので、ごく個人的な推測であり極論であることを先にことわった上で書く。
子どもを産んだからといって必ずしもその子をかわいいと思えるわけではないはず
母親=子どもが大好き、という前提をひっくり返さないと、大変なことになりますよ。というのが私の考え。
一人の母&一人の子という無数の組み合わせには様々なレベルの相性というのがあるに決まっている。
中には子どものことをそんなに好きじゃない場合もあって、だからといって虐待したりましてや殺していいということにはならないが、そんなに好きじゃないってことをもっと認めてもいいんじゃないかと思う。
掛け替えなく>かなり>結構>まあまあ>わりと>そうでもない>あまり・・・
何事の程度にだって、このくらいバリエーションがあるのが当然だ。
それをみんながみんなトップレベル(いわゆる無償の愛的なもの)を目指さなければいけないって、正直キツい。
「私、子どものことはそんなに好きじゃない、でも子育てはがんばってる」くらいいってしまっても(思っていても)いいんじゃないの。
それでも白い目で見られないようなおおらかさが社会には必要だし、そうあってほしい。じゃないと、トップレベル枠から外れている母親たちはどんどん追い詰められてしまうし、ひいてはそのことで夫に引け目を感じたり怯えることになってしまう。
この小説の中でだって、夫や姑がむしろ率先して「母親なんだから子どもを愛するのが当たり前」という幻想をかたくなに持ち押し付けているのが伝わってくる。
だから里沙子自身、その幻想にがんじがらめになっているのだ。
彼女は、ことあるごとにぐずる娘に「ごめんね、あーちゃん」と謝る。「ママが悪かった」と。そんなシーンが何度も何度も出てくる。
幼児が駄々をこねるのはごく普通のことでこの娘がとくべつ悪い子どもとは思えない。しかし、母親が悪いわけでも決してない。
なのに、なぜ謝る。
里沙子がたった3年しか生きていない娘に執拗なまでに謝るたびに、私はどうしようもなく苛々した。
でも今はわかるのだ。
これはただ単に娘に媚びているだけ。愛情でもなければ本当に悪かったなんてこれっぽっちも思っていない。
それと、なにより夫に怯えているだけ。
怒ったり、手をあげてしまったら、娘のことをそんなに好きじゃないってバレちゃうから。「母親失格」になってしまうから。そしたら、夫のもつ幻想を壊してしまうから。
(ちなみに、ちょっとしたお仕置きをしているところを偶然目撃した夫に酷く責められる場面がある。私の苛々はそこで最高潮に達した。)
ああ、なんということだ。
彼女をもっとも苦しめているのは、ほかでもないこの夫ではないか。
そんな夫を愛せるわけない。
終盤で、里沙子は薄っすらと気づいていく。
心にちいさく開いた穴がどんどん広がっていくのを、どうすることもできずただ感じていた。
先週から今日にわたって、自分が見てきたものはいったいなんだろうと里沙子はあらためて思う。事件を起こしたどこかの夫婦ではなく、自分の結婚生活を掘り起こしていたことを、もう認めないわけにはいかなかった。
暴力など一度もふるったことがない。(中略)けれど実際は、青空のような陽一郎は、静かな、おだやかな、こちらを気遣うようなもの言いで、ずっと、私をおとしめ、傷つけてきた。私にすら、わからない方法で。
夫に対し、実は結婚前から違和感を感じていたことまでも思い出す。
しかし里沙子は、夫が憎しみで彼女をおとしめ傷つけてきたのではなく、「(夫は)そういう愛し方しか知らないのだ」と結論づける。
愛しているには愛しているが方法が違うだけ、と自分を納得させる(その論法は、彼女と彼女の母親との関係にも使われる)わけだが、ここが決定的な間違いだと思う。決定的で絶対的に間違っている。愛情表現としての‘おとしめ’なんて、あるはずがない。
ただ、こうも思う。夫からの愛情、また夫への愛情がない(あるいは希薄である)ことを認めるって、とても辛い。
認めてしまったら、じゃあ私の選択って間違っていたの?! 結婚してからのあれやこれ、全部無駄だったってこと? と、自分の半生を否定することになってしまう。
その辛さを承知の上で、それでも私は、認めちゃいなよ! といいたい。
苦しいのは一時的。誤魔化し続ける方が余程この先の人生つらいんじゃないのか。
なにも、大っぴらに発表する必要はない。自分の胸のうちで密かに認めてぺろっと舌を出していればいいんだ。
もう少し書き加えると、私のいう「子どものことがそんなに好きじゃない」は、「嫌いである」こととイコールではない。
嫌悪や憎しみは虐待(果ては殺意)に繋がるかもしれないが、最上級の愛がなくても子は育つ、といいたかっただけだ。
子どもは本能的に母親からの愛を欲しがるし、それが「そうでもない」と気づいてしまったらショックだとは思う。が、死にはしない。成長すれば、他に愛を与えてくれる人は現れる。仮に現れなかったとしても、どうにかなる。
――――長々と、それもかなり乱暴に書いてしまった。所詮未婚子無しという立場でかたっても、‘言うは易く行うは難く’にしかきこえないかもしれない。
が、里沙子への思いは、すべての母である女性たちへの敬意と労い。堂々と、逞しく、図々しくいてほしい。そんな願いであり、エールの意味をも込めて書いたということを断じて終わる。