本谷作品の登場人物は、概して「こうなりたい」と思う人物ではない。どちらかというと「こうなりたくない」の方だ。
にもかかわらず、その磁力に引き寄せられてしまう。
磁力の源は、
世間体と無関係にいられる強さ
私を含めた世間が「ちょっとちょっと、頭おかしいんじゃないの?」と苦い顔をするようなことを、本谷有希子の書く人物たちは日常的に実践する。
外からの評価は判断基準に含まれない。
あるのは、唯自分。
そうしたいから。
そうしかできないから。
誰かがどう思うかなんて、なんの意味があるというのか。
高2の秋から引きこもりになる契機となった事件の際、彼女はこう言っている。
「お前らはただ世間から見捨てられることばかり気にしてる馬鹿ばっかりだけど、エリは違う。こうやって自分から世間を見離すことが出来る。ちゃんと強制終了する権利を持っている。エリは世間と対等なんだ」
強い。
が、そこには強さと引き換えのひりひりとした痛みも伴う。
以下は別のシーン。
「変な目で見んな! おかしいこと言ってるなんてエリだってちゃんと分かってるよ! ねえ、そこのお母さん!」
そう。分かっているのだ。
完全に「イカれて」いないから、ひりひりするんだ。
おかしいと(見られるのは)わかっていながらも、そうせずにはいられない。
その「強さ」は、「自由さ」と言ってもいい。
私は精神的にも肉体的にも自由に生きたいと思っているはずなのに、何かしらに縛られている不自由さを感じることが、よくある。
とくに精神面での不自由さは、世間体、つまり他人からどう見えるかが関係している場合がほとんどのように思う。
変な人と思われたくない。嫌われたくない。みんなと一緒は嫌だけど大きくははみ出したくない。一人だけ疎外されたくない。無視されたくない。軽く扱われたくない。
意識的にせよ無意識的にせよ、こういう気持ちがどこかにある。
それどころか、できれば褒められたい。いい人だと思われたい。ちやほやされたい。人気者になりたい。すごいと言われたい。
こんな欲さえも図々しく存在している。
一方で、くだらねえ! とも思っている。
こっちが本心のように見える。
なのに、両者(どちらも自分だが)を秤にかけて、結局世間体をほどよく考慮した上で常識から大幅に外れない程度のでも自分もまあまあ納得できるくらい、というどっちつかずの言動でやり過ごしている。
これまではその小賢しいやり口で生き延びてきたけれど、いつ本音100%の自分が世間体ブレンドの自分を打倒するかは、わからない。
だから、江利子のような人物を(たとえフィクションの中でも)羨ましさに似た思いと、明日は我が身という思いの入り混じった複雑さで見てしまうのだ。
他人事ではない。他人事ではない。
読みながら、私は、まだ、だいじょうぶ、と思った。
本当に?