「おじさん的」な本を読んだ。
自分だったらまず選ばないだろう類の本(そもそもほとんど新書を読まない)ではあるが、先日会った友人が「読み終わったから」と置いていってくれたのだ。
どうやらこの著者はラジオのパーソナリティもされていて、その番組(の中の短いコーナー)で紹介した本を、今度は「声」ではなく紙の上で紹介しよう、という趣旨で出されたもののようだ。
高橋源一郎という名前はどこかできいたことがあるようなないような、という程度の認知度(つまりほとんど知らない)、プラスそでの略歴から「51年広島県生まれの明治学院大学教授」ということを知っただけ。
それ以外は何の偏見も先入観もなく読んだのだけれど、まあまあ序盤からおじさんの臭いがしていた。
ピンときたのは、ときどき現れる「マジで」という言葉。
使い方は間違っていないし頻繁ではない。
ただ、どこか無理があるというか、「若作り」っぽく見えてしまっているのだ。
なんでだろう。
本物の若者じゃない人が若者言葉を使うと、使いこなしていない感が漏れてしまうのだろうか。
違う。
この人は日常的に使っている。
「若者寄りのおじさん」として若者に距離が近いことを隠さずむしろ明るみに出している感じがする。
それは媚びに近い。
同じようなことでいえば、「超○○」(今の若い人ってもう使ってないんじゃない?)もそう。
これは少し前にあるお笑い芸人の喋りを見ていて気付いたことなのだけれど、中年以上の人が言うと痛々しくなるからやめた方がいいし、私も使わないように気を付けている。
そういった言葉遣いだけでなく、紹介している本が「ちょっといい話」または「一風変わったおもしろネタ」のいずれかにカテゴライズされるというのが、いかにもおじさん的だと思った。
どちらも私にとってはまったく興味をそそるジャンルではないのだけど、紹介している側からは「ここに目をつけた俺」「ちょっと変わった本を知っている俺」アピールが透けていてる。
たとえばいろいろな物の正式名称が載っている『正式名称大百科』。
ゴリラは「ゴリラ・ゴリラ」だとか、コンセントは「配線用差込接続器」だとか。
多少意外ではあってもそんなに食らいつくようなこととは思えないのだが、同じようないくつかの例を挙げ、合間に「これは本当に驚いた」と毒にも薬にもならないコメントを挟まれても、ねえ(苦笑)
つまらない話を延々されて、でも「つまらないですよ」と伝える術もなく苦笑するしかないキャバ嬢になった気分だ。
他にも、世界中の赤ちゃんが泣いているだけの写真集を紹介して、写真からなぜその赤子が泣いているのか勝手にストーリーを作って理由を推測した挙句「(赤ちゃんは)泣いていいのだ。それで成長するのだから」とごく当たり前の結び。
からの、驚愕の大オチ。
ああ、でも、女性の場合も、時々泣いている意味がわからないときがあるんだよね……。
この一文で血の気がサーっと引いた。
なぜ、実際女に泣かれる(泣かれた)ことなんてそんなに多くはないのに言うのかな、こういうことを!
いや、実際この著者はモテにモテて数多(あまた)女性に泣かれる経験をお持ちなのかもしれない。だとしたら謝る。
でも、結構なイケメンでも目の前で女性に泣かれることって、そうそうないような気がする。
いやいや、この際、実際にどうかはどっちでもいい。
仮に女性に泣かれることが頻繁にあり、その理由が「時々はわかる」し「時々はわからない」のだとしても、泣いている赤子の写真集の話からそのオチに持っていくという強引さを私は拒絶する。
ああ、またおじさんに対して熱くなってしまった。
どうしたんだろう、私。
今年はおじさんを責めてばかりだ。
別に反省はしないけど。
注:タイトルはこの著者による言葉ではない。
作中で紹介している本の著者(芥川賞作家であり僧侶)が書かれた言葉です。
(インパクトのある他人の言葉をタイトルに使うというのは出版社の策略の
可能性大)
しかしこの本(ラジオも)、どの年齢層のどういう人をターゲットに
しているんだろうかという疑問が残るし、本をくれた私より少し年下の女友達の
感想も気になるところなので、今度きいてみようと思う。