乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#11 負ける技術  カレー沢薫著

 

 読書メーター(読書家のためのSNS)で目にしてから読みたいと思っていた本。

 日本の図書館にはなかったのに海を越えた異国の古本屋にあるという奇跡により、この度めでたく手にすることができた。

 

 最初はペンネームの「カレー」の部分に惹かれたという不純な動機だったと思う。

「何? カレー!?」と、カレーが好きなあまりパブロフの犬のごとく反応してしまったのだ。

 もちろんタイトルを見ればカレーのレシピ集や美味しいカレー屋情報ではないことはすぐにわかるが、内容は何にせよ読むしかないだろう、と自らに課せる義務。

 

 二年の歳月を経て、その義務を果たした。

 

 

 これは、面白い

 

 

 本の感想を書くとき、「良かった」と「面白かった」はなるべく避けるようにしていた(それほど無価値な感想はない)けど、今回はそのルールを破らざるを得ない。

 

 

 だって、面白いんだもん

 

 

 鮎原こずえ(古い)になりきって、堂々と言う。

 

 

 しかし、ただ面白いと連呼するだけでは単細胞の阿呆みたいだから、どこがどんなふうに面白いのかはしっかり書きたいと思う。

 

 

 なんて意気込んでみたけれど、面白さを説明することの難しさ(説明能力のなさ)に頭を抱えてしまう。

 

 つべこべ言わずに読んでくれ。

 読めばわかるから!

 

 

 と、乱暴にお薦めして終わらせたいくらいだ。

 

 

……

 

 

 気を取り直して。

 

 まずエッセイやコラムを読む上で、私が「面白い」と思う重要ポイントは3つ。

 

 ① 綺麗事がいっさいなく赤裸々に書かれていること。

 ② ポジティブシンキングではないこと。

 ③ ②と似ているが、物事を見る目線が基本的に斜めであること。

 

 なぜなら、実生活でもそうなのだけれど、綺麗なことをたくさん言う人と根拠なくポジティブな人と物事を真正面からしか見ていないイノセントな人が、信用できない(好き嫌いの尺度ではなく、信用の問題)から。

 どれも、自分に持っていないものを持っている人、ともいえるので嫉妬の一種による反発でもある。

 

 

 とにかく、私がエッセイおよびコラムを読むことが少ないのは、この条件を満たす読み物が実はあまりないというのもその理由の一つになっている。

 

 そしてこの『負ける技術』は見事に3つともクリアしていた。

 

「漫画家にして会社員にして人妻」であるカレー沢さん(本を買ってから知った)の日常が、綺麗事がないどころか毒と怨念(対象はリア充)にまみれ、ドがつくほどネガティブシンキングで、目線は斜めというよりもはや真下近くから書かれている。

 

 

 オープニングの時点で、「私には友達もいなければ趣味もなく」といきなりの低自己評価。

 いいぞ いいぞ。私の好きなやつだ、とすぐに確信した。

 友達が多い(と胸をはって言える)こと、そして多趣味であることは、それだけでほぼ100%3つの条件に当てはまらない。

 

 

 そんなはじまりから最後まで私の確信を裏切ることなく、負け犬っぷりが滔々(とうとう)と綴られていた。

 

「負け犬」と書いたが、人妻である(コラム連載中に結婚)にもかかわらずの負けであり、かの酒井順子氏のいうところの「負け犬」と一線を画しているところが時代の先端をゆく負け犬だ。

 

というわけで人妻となった自分であるが、結婚報告をした際、負け犬発言ばかりしていた割にはちゃっかり勝ち犬ではないか、などと言われることが多かった。確かに私も勝った! と言いたいところなのだが、先日、「高校生カップル、自転車を手をつなぎながら並走」、というすべてがそろい過ぎてなにから憎んでいいのか分からない二人組を見つけて10秒くらい心臓が止まってしまったので、どんな立場になろうと私に勝ちはない。

 

 負け犬か勝ち犬かは、今や既婚・未婚による区分けではなく、リア充・非リア充によるのが新しい。

 

 

 自虐的負け犬の非リア充な暮らし

 

 

 簡単にいってしまえば、それだけで出来上がっている本。

 

 

 ここで厳密にいっておきたいのは、自虐には二派あるということ。

 一つはひたすら己を忌み嫌う「自己嫌悪」型。もう一つは自己評価は低いもののそんな自分を容認している「べつにこれでいいんだけどね」型。

 

 前者は「私なんて」という言葉を筆頭に、愚痴か不幸話しか出てこないタイプなので、そんな話はきいていても面白くもなんともないし、逆に何かを奪われる感じもするのでできればききたくない。

 

 カレー沢さんはいうまでもなく後者の自己容認型自虐。

 毎回、自分がいかにイケていないか、リア充からほど遠いかを書いているが、根底はいじけていない。

 非リア充だけど、リア充になりたい! とは微塵も思っていないし、どうにかそこから抜け出して勝ちにいこうとしていないのがわかる。

 こういうのを「脱力系」と括ることも可能かもしれないけれど、奥田民生とか所ジョージ的な「それはそれでカッコいい」要素は皆無で、とことんカッコ悪く、「なんだ、結局リア充じゃん」とならないところがまた、良い。

 

 だからこそ、私は純粋に共感し、「ははは、この人、本当ダメだなー」と思いながら、大好きになってしまった。

 

 

 かねてから、家族でも友人でもないましてや知人ですらない誰かが難病を患いながらも懸命に生きようとしている姿を見て「自分も精一杯生きようと思った」「元気をもらった」という人が驚くほどたくさんいて、どうしてそんなふうに思えるのかまったく理解できなかったのだけれど、こういう負けコラムを読んで、元気になるわけではないが心の隅っこに安堵や「負けでもいいのだ」というマイナスからの前向きさが生まれることは構造としては同じなのかもしれない、そんなふうに思った。