「悪」とは何か。そして、「悪よりいやらしい悪」とは。
これが本作のメインテーマ。
かと思いきや、そんなに堅苦しい話ではなく、背筋を伸ばす必要はまったくない。
最初から犯人のわかっているサスペンスとして愉しく読むのが正しい。
遠藤周作の代表作といえば『沈黙』や『深い河』などが挙げられるように、「キリスト(教)の人」というイメージが強い(別所哲也=「ハムの人」みたいな)。
この作品もそんなキリストの人らしく、ミサで神父が「悪魔というのは埃のように人の心に入り込むのです」という説教をする場面からはじまる。
では「悪」ときいて、何を思い浮かべるか。
大きくわけて二つある。
一つは、犯罪として認知されるもの。つまり、法を犯すこと。殺人、傷害、窃盗、放火、強姦などが代表的な「悪」。
もう一つは、道徳的なもの。法には触れていないが、一般的社会的に「悪い」と思われるようなこと。こちらは、法のような線引きがないのでふわっとしているが、所謂常識から外れている(と思われる)こと。
ただ、そもそも「常識」という概念には国や文化、時代、さらには個人による差異(幅)があるので、定義は難しい。
強いていえば、子どもの頃に大人から「これはダメ」と教えられたことと、成長してから「(他人にされたら)嫌だな」と感じることがベースになっているものがそれにあたる気がする。たとえば嘘をつくとか、約束を守らないとか、悪口とか、そんな感じ。
でも、「嘘も方便」「優しい嘘」なんて言葉もあるくらいだから、自分の思う「悪」が本当に悪いことなのかどうなのか境界線はやはり曖昧。
著者が描こうとしているのはこのどちらをも超越した、悪より悪い悪。心に悪魔が入り込んでしまった人間の悪魔性である。
さて、この悪魔性をもつ人物として、とんでもなく悪い女医が登場する。
誰もが振り向く美貌を武器に男を翻弄したあげく手の甲に針を突き刺したり、智慧(ちえ)おくれの男児に実験用の鼠を殺させ悦んだり、瀕死の老婆を使って人体実験をしたり、それはもう残忍極まりない。
それらの行為そのものはほとんどの人が「それは悪です!」と自信をもって判断できるようなこと。でもそれよりも恐ろしいのは、彼女が罪悪感も自己嫌悪もサディスト的な快感さえも持たず、実に白々としているその神経だ。そこが単なる悪人を超えた悪魔たる所以である。
しかしこの女医、無闇に動機のない悪事をはたらきながらも、同時に自分の持つ悪魔性についてわりとしつこく思案している。
(わたくしはどこか、狂っているのかしら)
いつものことながら、ふっとそう思う。だがそう反省できるだけ自分はまだ狂ってはいないことは彼女自身が一番よく知っていた。
(わたくしがこんなことをするのは、このひからびた心を癒したいためだわ。わたくしの心は一滴の水もない……)
こういう自問自答の繰り返しが、悪魔というよりむしろ人間臭くて面白かった。
そしてなによりこの女医が、見栄っ張りでカッコばかりつけてるくせに頭の中は女とやることしか考えていない薄っぺらな男たちをバサバサと斬っていく場面を実に痛快で清々しい気持ちで読んだ。
悪魔性に好感すらもったし、よくぞ言ってくれた! と拍手したい気持ちになるような台詞がたくさんあった。
サスペンスとしても終盤に驚きの展開が用意されていてよくできているのだけど、これって実は悪がどうとかもはや関係なく、世の女たちの鬱憤を晴らすために書かれた物語なんじゃないかと、あとになって思った。
たぶん時代的にも、女は早いうちに結婚して子供を産んでなんぼという時代から女性の社会的地位向上が劇的に進む時代に移行した頃で、男にかしずかない強い女の勢いが盛んだったはず。
だとしたらこの悪魔のような女医は、「女をなめんな」と立ちはだかるスーパーヒロインじゃないか。
それともやはり男性作家の作品である以上、同性に対する「女って怖いよ。こんな悪魔のような女もいるんだよ」という指南なんだろうか。
いずれにせよ、はじめに書いた「キリストの人」という遠藤周作像から外れた意外性が見られて面白かった。