乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#5 チャンス  太宰治著

 

 

あの太宰が、恋愛をディスってる!

 

 

 これが感想のすべてといってもいいくらい。

 でもさすがにこの一行だけでは語弊もあるし感想ブログにならない(ので続ける)。

 

 

 あの太宰、というのは周知のとおりの、献身的な妻がありながらも女の影が絶えず、そのうちの誰かと心中なんてしておきながら自分だけ生き残ったりした、あの人。

 さぞや恋愛経験豊富なはずの、あの人。

 恋とか愛とか取り除いたらアイデンティティの方向性がだいぶ変わっちゃいそうな、あの人。

 

で。

「ディスってる」というのは反射的・短絡的に出てきた言葉で、ここに少し語弊があるかもしれないのでもう少し丁寧に説明する。

 

 

 まず太宰は、綺麗に愛を騙(かた)ることを、愛そのものを、結局色慾だろうと断言する。

 そして、その愛とやらが「ふとしたきっかけ」で生まれるものだとする「恋愛チャンス説」を全面的に否定している。

 

 

どの口が言うか!

 

 

 と突っ込みながらもつい目じりを下げて吹き出しそうになる。

 

 

 はっ。

 

 

 これはまさに……「もぉ、しょうがない人ねえ」と彼を赦してしまう女の心理ではないか。

 

 いや、違うか……。

 

 まあとにかく、その太宰がくどくどと繰り返す持論はだいたい以下のようなもの。

 

 

いったい日本に於いて、この「愛」という字をやたらに何にでもくっつけて。そうしてそれをどこやら文化的な高尚なものみたいな概念にでっち上げる傾きがあるようで。(中略)恋と言ってもよさそうなのに、恋愛、という新語を発明し、恋愛至上主義なんてのを大学の講壇で叫んで、(くどいのでさらに中略)これを在来の日本語で、色慾至上主義と言ったらどうであろうか。交合至上主義と言っても、意味は同じである。

 

 

 要するに、そもそも恋だろうが愛だろうが色慾そのものの恥ずかしいものなのに、男も女も言葉だけはそれらしく巧みに使って神聖なように演じやがってちゃんちゃらおかしいぜ、と言いたいわけだ。

 

 

 でも、太宰が吠えれば吠えるほど逆説的にきこえてくるのは、私のひねくれた心のせいか?

 

 

 恋愛なんてそんな綺麗なもんじゃないだろー! と憤っているようでありながら、その実、彼こそがそれを神聖なものとみていて、神聖なものとしたくて、神聖であると信じたくて、だからグロテスクな慾望を隠すための言葉として蔓延していることが我慢ならない。キャッチーに使ってくれるなよ。そんな遠吠えみたいだ。

 

 

 積もり積もった鬱憤をごちゃごちゃと並べたてたあと、今度は「恋愛とはチャンスだ」とのたまう人々を全否定。

「赤い糸」や「運命的な出会い」の類を、すべてそんなものは存在しないというアンチ恋愛チャンス説を繰り広げる。

 

そんな下手くそな見え透いた演技を行っていながら、何かそれが天から与えられた妙な縁の如く、互いに首肯し合おうというのだから、厚かましいにも程があるというものだ。自分たちの助平の責任を、何もご存じない天の神さまに転嫁しようとたくらむのだから、神さまだって唖然とせざるを得まい。

 

 

 縁でも運命でもないのなら、何だというのか。

 

 

少なくとも恋愛は、チャンスでないと思う。私はそれを、意志だと思う。

 

 なるほど、これは一理ある。

 根底には色慾(助平心)があって自分の意志で近づいているのに、それをさも偶然起こったことのように言うなよ、ということだな。

 

 

 これにかんしては、どちら(チャンスか非チャンスか)が正しいということではなく、結局人は自分の思いたいようにしか思わないというだけのこと。それに尽きると思う。

  殊に恋愛に於いては「こんな偶然が!」「もしかして運命の!?」というふうに解釈した方がより気分が盛り上がるからそうする人間が多いというだけのことで。

 

 

 ま、どっちでもいんじゃね?

 

 

 という話。

 

 なんだけど、太宰としてはひとつの作品にしてまで物申したかったんだろうなあ。

ヨゴレに見せかけて、ピュアな人。(ああ、またつい赦す女の思考が……)

 

 こんなに面白いエッセイがなぜ世に広く読まれていないのか、わかるようなわからないような、ちょっと複雑な気持ち。

 

 ちなみに読書メーター(読書家たちのSNS)でも、『チャンス』の登録(読んだ・読みたい・積読)者数はたったの7件。

 一方、『人間失格』は集英社文庫だけでも8474人の人が登録している。