乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#19 自由死刑  島田雅彦著

 

 自由死刑

 

 自分で日取りと方法を決め、自ら刑を執行すること。つまりは自殺を意味するにもかかわらず、「自由」と付くだけで解放的な響きをもつ。というと言い過ぎかもしれないけれど、少なくとも「自殺」から連想される逼迫感が急にびよーんとたわむから、言霊じゃないけれど言葉の内包するイメージってすごい。

 

 ともあれ、こういう「突拍子もない、でもあながち非現実的でもない」話を読むと、無意識のうちに「私だったら……」と自身に置き換えてどこまでも思考をめぐらせられるのが愉しい。島田雅彦は、いつも私を果てしない想像の世界へ連れていってくれる。

 

 この小説は、これといった動機もなく(ないように見える)自由死刑を決めた男・喜多善男が、所持金100万円で死刑執行までの一週間を過ごす物語。

 健康な成人男性らしく兎にも角にも性欲と食欲を満たすことを考えるのだが、そんなに簡単にはいかない。のっけから妙な男と出会ってしまい、意図せぬ方向へと流されてゆく。

 

 

 遠い昔に読んだ聖書みたいだなあ。                   

 

 キリストの巡礼……天地創造……頼りない記憶を掘り起こそうとしていたら、聖書を愛読しイエスをスーパースターだと崇める女が出てきた。

 

 矢庭にシンパシーを感じて小躍りするも、そもそも各章が「Monday」「Tuesday」……「Sunday」……となっている時点でイエスの最後の一週間をなぞっているのは明白だし、聖書を連想するのは当然だった(独りよがりの小躍りを恥じる)。

 

 

 一方で、「自由死刑」という案が甘い蜜にも劇薬にも見えてくる。

 

 

 誰しもが生を受けたからには遅かれ早かれ死を迎えることは言うまでもないが、それがいったいいつ、どのようになのかは知り得ないというのもまた平等に与えられた事実。

 

 この、「終わりがいつかわからない」という初期設定はけっこうしんどい。

 あとどのくらい頑張ればいいのか、あるいはどのくらいは頑張らなくてもいいのか、ゴールが見えないから予測できない。終わりの定まらないことに計画は立てられないし、結局できることといえばとりあえずの今日を乗り切ることだけ。

 

 この繰り返しに虚しさを感じることが、ままある。

 いつまでこんなことを、と気が遠くなることもある。

 

 でも、自由死刑さえ決めてしまえば、好きな時まで好きなように生きて、終われる。

 なんだかとても魅力的じゃないか。なぜ皆そうやって人生を終わらせないのかとすら思えてくる。

 

 いっそ自由に終わりを決めてしまおうか。

 じゃあ、いつにする?

 どこで、どうやって終わらせる?

 

 

 ここで思考はストップする。

 

 

「どうやって」の部分がとんでもない高いハードルとなって立ちはだかる。

 倫理観や道徳観での躊躇いではない。「向こう側」に行くのに伴うであろう痛みや苦しみが怖い。

 その単純な恐怖心、本能にインプットされているその機能が、「なぜ皆そうやって人生を終わらせないのか?」の問いに対する答えなのだろうか――。

 

 

 自殺することすら自由ではないなんて。

 

 

――簡単なことよ。私も喜多さんも自由と戦ってるの。

――自由? 奴隷の自分を解放するための戦いというわけですか。

――そんなんじゃない。見せかけの自由が信じられなくなったの。自由、自由っていうけれど、そんなのはみんな誰かに与えられて、ありがたくちょうだいしてるだけじゃない。みんな命令されて、自由になってるだけ。表現の自由だって、職業選択の自由だって、宗教の自由だって、住居の自由だって、みんな社会の約束事に過ぎない。別に私が自分で獲得したものじゃない。その証拠に、人殺しの自由とか、泥棒の自由とか(中略)そんなのは認めてくれないから、みんな諦めてる。誰だって、命令されたり、禁止されたりしなければ、自由にはなれないし、自由の意味もわからない。私は今まで、自分が自由だって騙されてきた気がする。だから、これからは、そういう嘘の自由と戦うんだ。

 

――喜多さんは……嘘の自由を全部拒否してみせたんだわ。喜多さんは誰の命令でもなく、誰にも干渉されない自殺を図ろうとしただけなのに、みんな寄ってたかって彼を利用しようとした。自殺することさえ自由にはなれない。(中略)本当に自由でいることはすごく骨が折れる。もし、喜多さんが自殺に失敗しちゃったのだとしたら、今までより何十倍も残酷な生を受けなければならないんだわ。そして、喜多さんは正真正銘、一人ぼっちになってしまうのよ。一度でも、死を間近で体験した人は、もう嘘っぱちの人生や社会には戻って来れないんだから。

 

 これは、前述のキリスト信仰の女が終盤 で言った台詞。

 

 彼女のいう「自殺することさえ自由にはなれない」は、私の思う「自殺すら自由ではない」と意味合いが違う。

 彼女は、喜多の自殺を邪魔する社会に敵対心を持ち、社会が嘘の自由を作り上げ人々を騙している、そこから本当に自由になりたいという意味で、こう言っている。

 

 

 一見、真理を突いているようにも見えるけれど、「本当の自由」も「嘘の自由」もなくて、自由という概念を持っていることこそがすでに不自由というからくりに自ら嵌まってがんじがらめになっているように感じた。

 「本当の自分」を探し続けている人から受ける印象と全く同じ。

 本当も嘘も、そんなものどっちもないのに。どっちもないし、どっちも本当なのに。

 

 強いて本当の自由があるとするならば、自由だ不自由だ考えずに生きることであり、死ぬことなのかもしれない。

 

 

 

 愉しい妄想ではじまったはずの読書が、最終的には自分の内側にある闇を見つめることになって苦しかったし、直視せず目を逸らしているところもまだある。

 正直なところ、今、そこをさらにほじくり返す気力はないので、中途半端な、感想ともいえないつぶやきだけを残すことになった。

 

 最後に、巻末の島田雅彦氏の言葉を引用して、閉じようと思う。

 

私がこの作品を通じて何かを悟ったとすれば、それは食欲や性欲、知識欲とともに死に欲というものがあるということだ。フロイトは正しかった。