乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#番外編  文章読本  谷崎潤一郎著

 

 今回は本の感想ではなく、感想の感想です。

 

 ある友人が書いたこの本の感想の中に興味深い引用文があったので、それを読んで考えたことを書いてみようと思います。

   

 私は谷崎潤一郎は小説なら何作か読んだことがありますが、これは文章・文体について書かれた随筆、というか実用書(?)のようです。

 

 まずは、友人が引用した部分を、その前置きから。

 

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そしてこの本にはひとつ、とても時代を感じる提案があります。

以下「三 文章の要素 敬語や尊称を疎かにせぬこと」から、この本を書きながら自分も(著者は)読者に対してある程度の敬語を使っているという流れ以後(太字は原文どおり)

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「時代を感じる」といっているのは、以下谷崎の論じている内容が、今の時代なら「セクハラですよ!」と炎上しかねない内容だという意味ではないかと思っています。

 

 

(ここからが引用部分)

 

ついては、この際特に声を大きくして申し上げたいのは、せめて女子だけでもそう云う心がけで書いたらどうか、と云うことであります。男女平等と云うのは、女を男にしてしまう意味でない以上、また日本文には作者の性別を区別する方法が備わっている以上、女の書くものには女らしい優しさが欲しいのでありまして、男の子が書くなら「父が云った」「母が云った」でも宜しいが、女の子が書くなら「お父様がおっしゃいました」「お母様がおっしゃいました」とあった方が、尋常に聞こえます。で、そうするのには、女子はなるべく講義体の文体を用いない方がよいのであります。義体は、敬語を多く使うのには不適当でありまして、あれで書くと、どうしても言葉が強くなりますから、他の三つの文体、兵語体か、口上体か、会話体のうちの孰れかを選ぶようにする。指針や日記は素よりでありますが、その他の実用文や、感想文や、進んでは或る種の論文や創作等にも、女らしい書き方を用いる、というようにしたら如何でありましょうか。

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 なぬ?!

 

 女子は講義体を使うべからず?

 

 

 

 これは聞き捨てなりません。

 

 アラフォーだろうがアラフィフだろうが「女子会」「女子力」などの使用が認められている昨今ですから、私もまだまだ女子の一員であり、その女子に対して「女らしい書き方を用いる、というようにしたら如何でありましょうか」と持ち掛けられているのなら、検討してみようじゃないかと思うのです。(なぬ?!のところですでに怒られそうですが)

 

 私はこのブログを書くときに、講義体を使っています。

「講義体」というとなんとなく居丈高に響きますが、要は「です」「ます」を使わない、「だ」「である」などで終わるような文体のことです。通常私はこれを「普通体」と呼んでいますが、ここでは谷崎に倣って「講義体」とします。 

 で、その講義体を意図的ではなく自然と選択して使っているのですが、この引用文を読んで、なぜ私は講義体を使っているのだろうかと、改めて考えるきっかけになりました。

 

 

 そしていくつか浮かんだ理由は

 

① 単純に文字数が少ない

 「○○です」と書くのにくらべて「○○だ」と書く方が一文字少ないです。

 たいした違いではないようにも思えますが、一文につき2,3文字でも差があれば、全体ではけっこう違ってきます。

 文字数制限のあるテキストでない限り、数が増えたところで問題はありませんが、いちいち「です」「ます」「でしたが」「ましたが」などというのは私にとってとてもまどろっこしいものなのです。

 だから、文を書くときは、簡潔に、合理的に書ける講義体が好きです。

 

② 性質的な問題

  ①よりも、こちらが大きな理由です。

 谷崎潤一郎の主張している通り、ですます調はやわらかく女性的で、反対に、講義体は「言葉が強くなりますから」とある通り、荒々しく男性的です。

 私は自分の思考や言いたいことが、やわらかで優しいもの、あるいは美しく流れるようなものではないと知っているので無意識的に講義体を選んでいたように思います。

 普段の行動パターンや物言いも女性らしさに欠けるところが多く、そういう性質が文体に現れています。

 そして試しに丁寧体で書いている今、息切れしそうな疲れを感じています。

 

③丁寧体で書かれた小説は読まない

 これはすべての作品に当てはまることではなくて、書かれた時代または物語の時代設定によります。

 厳密に何年以降という括りはありませんが、自分の中で「最近」書かれた小説はですます調だとおもしろみがなく感じるという妙な現象があって、ぱらぱら捲ってみて文末に「ですます」が見えたらその本はまず買いません。

 好きな作家のものやタイトルだけで興味をそそられる作品でも、中を見て泣く泣く諦めたということが、何回もあります。

 文体がどうであろうと好きな作家のものなんだからと読んでみたけれど結局しっくりこなかった、というような経験を繰り返した後、いつからか先に避けるようになってしまいました。

 これはもしかしたら、作者の性別を問わず、新しい小説に強い女性性を求めていない(内容ではなく、読み心地として)からそうなったのかもしれないと、今はっとさせられました。

 一方、古い作品(これも何年以前という線引きはなく、あくまで自分の感覚)だとですます調でもすんなり受け入れられるのは、時代背景と文体の調和がとれているからだと、これも新たな発見をしました。

 私は小説を書いているわけではありませんが、この潜在意識が自分が何か書く場合にも発動して、内容に適合しない女性性を排除するために丁寧体を避けていたのでしょう。

 

 

 こんなふうに自分の文体についてじっくり考えたり分析することはなかったのですが、「文章にはパーソナリティが出る」というのがあながち間違いではない、いやむしろ確かなことだとつくづく思いました。

 そして、「女子は講義体を使わない方が良い」という谷崎の提案は女性らしさを出すには大変有効であるけれど、私のように慣れない者が実践するとかえって何を書いているのかうまくまとまらない、ということもわかりました。

 

 

 ――と、完全に谷崎の提案を無視しようとしている私ですが、この丁寧体をメールや日常の会話で使うのはまったく苦ではないということにも気づきました。

 オフィシャルな場で敬語を使ったり、対等な関係ではない人に丁寧体のメールや手紙を書いたりするのは、自然なこととしてやっています。文体のせいで発言がおかしくなることもありません(たぶん)。

  

 つまり、実用文や感想文のような一方的に持論を綴る場合においては講義体がしっくりくる、というのが私のスタイルのようです。

   

「実用文でも感想文でも――」という助言は遺憾にも受け入れ難く、今後も私は私のやり方(講義体)でいかせてもらうことにします。

 

 いずれにせよ、件(くだん)の友人が「まるで文章心理学のような本」と書いているように他にも面白い話が詰まっていそうで、いつか全編読んでみたいと思っています。