エモーーーーーー
エモいという言葉はまさにこの映画を観た時のために用意されていたのではないかと本気で思うくらい、エモいとしかいいようのない感覚に最初から最後まで、否、一週間経っても消えないままだ。
漫画がクラス内で出回り、授業中机の下でこっそり捲り読み耽っていたのは高校の頃。
「誰派?」「断然ミッチー!」「やっぱ流川でしょ!」そんな会話があちこちでされていた。
あれから30年。
時間の経過に驚き、しかしその長い年月を超え一瞬にして当時の熱狂を彷彿させる映像にまた驚き、瞬きするのも惜しむように惹き込まれた。
このエモさの素は何だ。
第一には、「懐かしい」という感情がある。
それは即ち「古い」ということにもなるけれど、この映画は単なるノスタルジーだけではできていない。
スポーツの話なので、必然的にそこには勝負があって、その試合運びも重要な要素だ。
弱小バスケ部(湘北)が王者(山王)と接戦を繰り広げる40分間という限りある時間の中で、押しつ押されつ、手に汗握る展開はやはりエモさに繋がる。
しかしここまでではまだエモの完全体ではない。
試合をしているのが、みんな人間だということ。
無鉄砲で荒削りなプレイをする花道。
とても高校生には見えない貫禄でゴリダンクをきめる赤木。
華麗なスリーポイントシュートを放ち、限界がきても何度も蘇るミッチー(my推しメン)。
涼し気な表情と裏腹に情熱を秘める流川。
そして今回スポットの当てられたりょーちん。
このチームでこの試合をするまでに、それぞれが歩んできた道がある。
りょーちんのアナザーストーリーを垣間見ることで、そんな当たり前のことを改めて感じさせ、想像させるから、観客は感情を揺さぶられるのではないのだろうか。
(ここで、「人間」て、2次元じゃん。とか言うのはナンセンス)
私は、スポーツに打ち込んだ経験もなければ観戦する趣味もない。
しかし、一つの目標に向かって厳しい練習を重ねていく人々の姿は美しく、純粋に胸を打たれる。
また当然のこととして、彼らはバスケだけをして生きているわけではないということがある。
家族がいて、友人がいて、いいこともあれば悪いこともあって、泣いたり怒ったり笑ったりする。
そこにあるドラマと、描かれていないがきっとあるであろうドラマと、絶対に交わるはずもないが私自身の生きてきた時間――30年後にまさかこんなところで一番好きな不良・ロン毛時代のミッチーを観ることになるとは思いもしなかった――、全部がミックスされて、「エモーーい」になるのだ。
男の子に生まれて、一旦不良になって、それからバスケをやりたかった。
叶うわけもないことを思い描きながら、映画館からバス停に向かうまでの人混みを重心低めですり抜ける自分には完全にりょーちんが憑依していた。
そして今、私のスマホの待ち受け画面にはミッチーがいる。うふふ。