乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#144 朝夕  林芙美子著

 

 

 あれ? この二人は別れ話をしているんじゃなかったっけ?

 店の経営もままならず、もうお互い別々にやり直しましょうという流れから、なぜ温泉に行こう! なんて発想になるのか。やぶれかぶれにも程があると、突っ込みどころ満載。

 

 

 林芙美子の作品の多くが、状況としては悲劇なのにジメジメしていなくて、笑えないけど笑っちゃうという明るさがある。

 だから読んでいてどんよりとした気持ちにならないし、むしろ人間の逞しさとしたたかさを見せられ、勇気が湧いてくる。

 

 順風満帆だけが人生の目的じゃない。山あり谷あり、でも生きている。生きていこう。

 ぬるいカウンセリングなんかより余程有効。

 

 

 この短編の夫婦(なか子と嘉吉)もそう。

 言うなれば、コント「別れる別れる詐欺」。

 

――なか子にしても、さて、現実にぶつかって見ると、年齢もとつてゐる、自分の躰のつかれもよく知つてゐた。嘉吉とちりぢりになつて、すぐその日から幸福がやつて来やうとは思はれなかつた。嘉吉にしても、金さへあれば、妻の一人や二人そんなに未練もなかつたが金もなく家も捨てゝしまへば、妻と別れて孤独になることは何としても淋しくて耐へられない。

 

 最後に温泉で楽しい思い出作ってハイさよなら、にはならないのは互いに愛情というよりは打算があるから。

 

 二人でいてもどうにもならない問題があるから離別という結論に至ったはずなのに、一人になることを考えるとそれはそれで苦難の道。だったら二人の方が……と無限ループに陥るなか子と嘉吉。

 

 ちなみになか子の「年齢もとつてゐる」というのが二十七八のことで、今の時代からすれば、何言ってるの、まだまだこれからでしょうという若さなのだけど、当時にしてみたらちょうど私くらいのすっかり中年の感覚なのだろう。

 

 一方の嘉吉が「金さへあれば」の思いに続くのが妻の一人や二人幸福にしてやれるのに、ではなく、一人でも楽しくやっていけるのに、というところがこの人の根源的な身勝手さの表れで、ますますなか子にこんな男とはさっさと縁を切るべし、と言いたくなる。

 

 

あなたと云ふひとは、私がゐないぢや何も出来ないひとなのねと、なか子は、時々嘉吉にあきれて見せながら、「景気が悪くなつて別れたンぢや気色が悪いつてあんたが云ふけど、こんなにとことんまで来ると今度は私の方が気の毒で見ちやゐられない」歩きながら、なか子があゝと溜息をつくのであつた。

 

「私がいないとこの人ダメなの」というのは不甲斐ない男から抜け出せない女心の典型で、裏返せばなか子自身も結局嘉吉がいないとダメなのだということに気づくのはずっと後のことなのか、あるいは一生気づかないままか。

 

 

 まあでも夫婦や恋人において、一切の共依存のない関係を維持するというのは相当自立した者同士じゃないと成立しないし、不安定な孤独とともに生きていくよりは身を寄せ合いながら二人でいる方がマシだと思えるなら、なんやかんやでそう悪くはないのかもしれない。

 

 思えば私は20代30代の頃、別れる別れる詐欺ならぬ、結婚するする詐欺みたいなことをしていた。

 と言っても、男性から結婚を餌に何か引き出すとかそういう小悪魔的な詐欺ではない。

 周り(主に親)に、「この人と結婚するよ」と宣言しておきながら結局しないんかい! ということを3、4回やらかした。

 

 

 別れた方がいいのにずるずると果てまでいくか、一緒にいればいいのに孤独を選んで離れるか、どちらが正解でもないしどちらが幸福でもない。ただ、いろいろあるよね、という話。