乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#145 砂の女  安部公房著

 

 

 昆虫採集を趣味にしている男が、珍しい昆虫を探しに行った先で起こる摩訶不思議な出来事。

 

 迷い込んだ砂丘にある部落で、終バスを逃しやむなく滞在することになったのだけど、とにかく砂まみれの土地に戸惑う男。

 対してその家に住む女は、砂のある日常にもはや何の疑問もないかのようにただひたすら降りかかる砂を掻き出している。

 

 

 どんな地形でどんな状況ならこんなことが起こるのか? 現実に起こり得るのか?

 否、これは現実ではなく安部公房の脳内世界だ。

 

 何かしらのドラッグをやっていたに違いない(個人の推測です)著者だからこその奇想天外な構想だと思う、が、こんなもの書けちゃうならドラッグ(がもたらす作用)の何が悪いのかと思わされる。

 

 

 また構想だけでなく素晴らしいのがところどころの比喩表現で、この喩え方! と手を打つような箇所がいくつもあった。

 

 

錆びたブランコをゆするような、ニワトリの声で、目をさました。

 

煮え立つ水銀のような太陽が、砂の壁のふちにかかって、穴の底をじりじりと焦しはじめていた。

 

左肩が、割箸を割るような音をたてた。

 

牛の喉に、ブリキの笛をおしこんだような音をたてて、何処かでにわとりが鳴いた。

 

蝋のように汗ばみ、融けていた。

 

死んだ蠅の脚のような活字に視線をおよがせる。

 

ずるい獣のように、吸いつく砂。

 

 

 砂砂砂砂の合間に不意に現れる突出した直喩の数々はもはや芸術。私もこんな表現を生み出すセンスが欲しい。

 

 

 それはさておき、はじめは一夜の辛抱だと思い余裕のあった男であるが、どうやら簡単にこの蟻地獄のような砂の穴から出られそうもないことに気づき、時間の経過とともに心境が変化していく。

 

 一時のことだろうと、楽観的に若干の不便さを許容する→抜け出せないかもしれない恐怖と何かしらの方法はあるはずだという希望→何かの間違いではないかという僅かな期待→なぜ自分がこんな目に遭わなければいけないのかという怒り→どうにかして脱出を試みることに全集中→一旦成功した後の更なる絶望→未練執念諦念抵抗消極的順応……

 

 

 刻々と降り積もりゆく砂との闘いが始まってからはずっと、体にまとわりつく砂のざらつき、果てしない作業による疲弊、喉の渇きなどの身体的不快感、それと呼応して追い詰められていく精神的苦痛の両方を読み手も味わうことになる。

 

 

 

「働くために生きる」から「生きるために働く」へ。

 

 そんな働き方改革が叫ばれる昨今。

 しかしどうだろう。

 

 砂をひたすら排除することこそ「生きるために働く」ことであり、それを怠ればやがて生をも脅かされるとなれば、「生きるために働く」のが手放しで素晴らしいとは言えないのではないか。

 逆に、仕事に追われながらも清潔で安全な住処があることはさほど悪いことでもないように思えてくる。

 

 働くために生きてるわけじゃない! と革命家ぶって叫ぶ前に、生きるために働く、働かなければならないことの真意をもう一度考えてみたらどうだ。

 

 かくいう私は、働くために生きているんじゃないのにと、不満を言うほど働いていない。

 どちらかと言えば、生きるために働いている。

 砂掻きと同様、文字通りちょっとは働かないと生きていけないというだけのことで、それ以上でもそれ以下でもない。

 

 働くことの本質って何だろう? と、この本を初めて読んだ学生時代には考えもしなかったことを思い巡らしてみるものの、明確な答えは出ない。

 

 今のところ、適当に働けること、それで生きていけること、労働と自由のバランスを保てることが私にとってはベター、というだけだ。

 

 生き甲斐となる仕事を見つけることが幸福であると信じすぎると、前に進もう進もうと砂に埋まる足を運んで、でも振り返ったらほとんど前進していなかった男のように落胆と絶望に見舞われてしまうから。

 

 

 さりげなく入れ込まれた同僚(メビウスの輪)の存在とか、いろいろ気になる点は残っているけれど、とりあえずまずは安部公房という変態かつ天才の脳の中(マジックマッシュルーム畑)に入ってみたいと、あらゆる意味で不可能なことを夢想している。