乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#101 秘密  谷崎潤一郎著

 

 

 主人公は、刺激に飢えていることに自覚的な中毒者。

 この中毒者の話を「耽美だ」「甘美だ」と評する人もいるようだけど、そうなのか?

 谷崎が書いたらそうなのか?

 これが無名の誰かが書いたものだったとしても「耽美」というのか?

 

 

その頃の私の神経は、刃の擦り切れたやすりのように、鋭敏な角々がすっかり鈍って、余程色彩の濃い、あくどい物に出逢わなければ、何の感興も湧かなかった。

(中略)

惰力の為めに面白くもない懶惰な生活を、毎日々々繰り返して居るのが、堪えられなくなって、全然旧套を擺脱した、物好きな、アーティフィシャルな、Mode-of lifeを見出して見たかったのである。

普通の刺激に馴れて了った神経を顫い戦かすような、何か不思議な、奇怪な事はないであろうか。現実をかけ離れた野蛮な高等な夢幻的な空気の中に、棲息することは出来ないであろうか。

 

 

 ちょっとやそっとのことでは物足りない彼が、もっともっと強いものをと求めた末に行きついたのが「秘密」だった。

 

 前半では自身が秘密を持つ側、後半では他人の秘密を暴く側となって書かれているのだけど、前半に関しては、一人で密かにおこない満足できるなら自由にやってくださいなという話。

 

 問題は、他人を巻き込んで「秘密」による快楽を得る後半。

 

 恋においても「秘密」が魅惑のスパイスになるのは、私にだってわかる。

 何から何まで簡単に見通せる相手よりも、ミステリアスな部分があった方が興味をそそるもの。

 

 ん? 待てよ。本当にそうだっけ?

 

 身元が確かなのは当然のこと、経歴も考え方も今何をしていてこれからどうなっていくであろうかもだいたい見える(けれど物足りない)人 VS どこでどう育ち現在どんな暮らしをしこの先どこへ向かっているのか薄っすらとしか掴めない(それが色気として漂う)人。

 

 果たしてどちらが魅力的なのだろう。

 

 すべてが手に取るようにわかる安心感をとるか、危うさとともにあるスリルをとるか。

 恋に落ちたいならやっぱり後者ということになるのかとも思うけれど、それには結構なエネルギーが要る。

 若い頃は安定なんてなんぼのもんじゃいと思ってきた私でも、もうスナフキン的な人とテンポラリーな関係を持つのは面倒臭い!

 

 

 話を小説に戻そう。

 

 ある晩主人公は、以前船の中で一時の恋仲となった――しかしそれきりになっていた――女性と偶然にも映画館で隣り合わせになった。

 薄暗闇の中、二人は手紙で改めて会う約束を交わす(女性の方は別の男性と同伴していた)、そのやりとりはドラマチックで、さらに女からの手紙には謎めいた会い方が示されていて、彼の好奇を掻き立てる。

 

私はこの手紙を読んで行くうちに、自分がいつの間にか探偵小説内の人物となり終せて居るのを感じた。不思議な好奇心と恐怖とが、頭の中で渦を巻いた。

 

 明日の夜、迎えの車を寄越すが住所は知られたくないから眼隠しをしますと女はいっている。それでなければ会わないとまで書いてあるから、条件をのまないわけにはいかない。

 

 が、見てはいけないといわれたら是非とも見たくなってしまうのもまた人間の性で。

 玉手箱を開ける浦島太郎も、障子をそっと開けるおじいさんとおばあさんも、駄目だとわかっていながらその衝動は抑えられなかった。

 

 この主人公の中でも、色恋の相手に秘密を求めながら、秘密があるなら暴きたいという相反する思いがむくむくと膨れ上がっていき、毎晩のように通っているうちにどうしても抑えられなくなってしまう。

 

 そこまでは、まあそうだよねと頷けるのだけど、オチは浦島太郎とも鶴の恩返しとも全く違う。昔話なら禁を破った方が何かしらを失うことになっているのに、そうならない。反則技をかまされたようで後味が悪い。

 

 

 秘密の内容は何であれ、とにかくそれがなくなってしまうと途端に興味を失う男の心境は理解できなくはない。

 私のイメージでは、男性は相手のすべてを把握し、把握した上でコントロールしたがる生き物。でもこの主人公は、把握したいどころか、秘密そのものに憑りつかれているだけでそもそも彼女には興味はないというか、別にその人でなくても(秘密さえあれば)いいという身勝手な男。

 そういう人もいるのだというところまでは許容するとしても、身勝手さを隠そうともせず悪びれることもないその態度がいただけない。

 

 

 こんな男の話を「耽美」というのか。

 

 

#100 コインロッカー・ベイビーズ  村上龍著

 

 

 私にとって初めての村上龍は、デビュー作『限りなく透明に近いブルー』ではなく、この『コインロッカー・ベイビーズ』だった。

 

 当時15歳の私がこの本を手に取ったのは、ティーンらしい不純な動機。

 その頃追いかけていた大好きなギタリストが意外にも読書家で(それを知ってますます好きになった)、ある音楽雑誌のインタビューに「好きな小説はコインロッカーベイビーズ」と答えていたからだ。

 

 村上龍という作家のことなんて名前すら知らなかったけれど、彼が好きなら読む。読むしかない。

 

 で、読んだ。

 

 ガーーン、という音がするのは漫画の中だけではなく、本当にするのだと知った。

 

 今思えば、おそらく内容は半分も理解できていなかっただろう。

 でも、新しい扉が開く感覚は、確かにあった。

 自分の知る世界はいかに狭く、未知の世界は無限に拡がっているのだ、という衝撃。

 

 それは決してわかりやすく美しい世界ではない。

 生々しさに満ちた、どちらかといえば不快を誘う、なのにもっと見たくなる。

 

 文章の、物語の、主人公の放つエネルギーに、ただただ圧倒された。

 

 それから何年か経ち、大学生になった私は、またこの小説を手に取った。

 前よりはやや理解を深めながら、震えた。

 

 その後、引っ越しや何かで文庫を手放しては、また読みたくなって買い直し、また売って、また買うということを何度も繰り返した。

 

 

 

 昨年、あるテレビ番組でTHE BLUE HEARTS(現ザ・クロマニヨンズ)の甲本ヒロトさんが、昔の音楽/今の音楽への思いを語っていた。(以下要約)

 

「若い人はみんないいと思う。音楽って、何がいいとか形とかないんですよ。一箇所感じるのは、歌詞を聴き過ぎ。アナログの頃、僕らは音で全部聴いてた。洋楽でも意味はどうでもよかった。ロックは僕を元気にしてくれたけど、元気づけるような歌詞は一つもないんだよ。お前に未来はないとか歌ってんだよ、No more future for youとか、それ聴いて、ヨシ今日も学校行こう! って思って行ったんだ。関係ないんだよ。でもデジタルになると、情報としてそれがきれいに入ってきちゃって、文字を追い過ぎてるような気がちょっとだけする。」

 

 

コインロッカー・ベイビーズ』を読むと、文学も、本来そういうものなのかもしれない、そんな気がしてくる。

 

 小説には必ず登場人物がいて、物語を織り成していく。

 が、設定や台詞や展開よりも、ダイレクトに感覚に訴えてくるものがすべてなんじゃないかと。

 

 多くの小説は、私の中で眠る感情を刺激し、そこから新しい発見を与えてくれる。

 同感からの安心、反発からの怒り、苛立ち、高揚感、好奇心、いろいろな角度から感情が沸き上がってくる、それが読書の楽しみの要素だと思っていた。

 

 本作には、それが一つもない。

 登場人物の誰にも自分が重なることはないし、コインロッカーに棄てられた彼らを可哀想だとも思わないし、棄てた母親を非難する気持ちも湧かない。

 

 

 その世界には、「この私」が存在しない。

 

 

 自我とかけ離れたところで、ただ、あらゆる感覚だけが覚醒してストーリーとともに駆け抜ける。

 

 

 生後間もなくコインロッカーに棄てられ、乳児院で育ったキクとハシ。ともに引き取られた九州の孤島。廃墟。バイクの爆音。野良犬。ダチュラ。ハシの失踪。ハシを探すキク。東京の繁華街。浮浪者。薬島。鰐。破壊。

 

 

「考えちゃだめよキク、考えちゃだめ、あんたあの高い棒を跳ぼうとする時、何か考える? 走り出した後よ、跳べるだろうか、失敗するだろうかって考える? 考えないでしょ? あたしが嫌いなタイプの人間は多勢いるわ、その中でも最低なのは悩んだり反省ばかりしている連中よ、自分について考えるような人はあたしに言わせればもう棺桶に脚を突っ込んでるんだわ」

 

 

 

 私はこれまでブログを更新する時に、とくにシリアルナンバーと作品の関連を配慮したことはないけれど、100という記念すべき番号にこの思い入れの強い作品があたった(あてられた)ことは、本当に嬉しく思う。

 

 

 

 

#99 敬語論  坂口安吾著  

 

 

「言葉は時代的なものである。生きている物だ。生活や感情が直接こもっているものだ。だから、生活や感情によって動きがあり、時代的に変化がある。」と前置いてから、男性語・女性語、そして敬語についての持論を述べている。

 

 

 私が「本当にそう!」と思ったのは、「お前よび」のところ。

 

 女房をお前とよぶのは男尊女卑の悪習だというが、例がフランスの「お前よび」にある通り必ずしも男尊ではなく親密の表現でもあり、他人行儀と云って他人のうちはテイネイなものだが、友達も親密になること、日本も「お前よび」と同断であり、女房をお前とよぶのも、むしろ親しさの表現の要素が多いであろう。

 た、日本の場合、女の方が亭主をアナタとよぶのが女卑の証拠だというのも、一概にそうも云えない。男言葉と女言葉の確然たる日本で、男女二つの呼び方が違ってくるのは当然で、アナタとよぶことが嬉しいという日本の女性心理には、日本の言語の慣例を利用して、愛情を自然に素直に表出しているにすぎないと見る方が正当ではないかと思う。

 

 

 昨年、ある企業が公式SNSで夫婦の何気ないやりとりを綴った中で、妻のことを「嫁」と書いたことが炎上し、謝罪したという妙ちきりんなことがあったらしい。

「奥さん」も「女房」も「家内」もダメで、唯一許される(男女平等だとされる)のが「妻」だという。

 

 いわんとすることは、わかる。

 夫を「旦那」「主人」というのも、神経質な女性からすれば下僕感のある呼び方なのだろう。

 

 

 でもさ、誰が誰に謝ってるの?

 

 

 私は誰かが「ウチの嫁が……」というのを聞いて不快に感じたことはないし、それだけで、女を見下している人だと判断することもない。

 そもそも、なぜ架空の(あるいはどこかの)夫婦間で使われる呼称に文句を言うのかが、まったく理解できない。

 

 安吾のいうように、夫は親しみを込めて「嫁」とよび、妻は夫からの親密さを受けて幸せを感じているかもしれない、とは思えないのだろうか。

 

 

 そういえば女友達の中には、彼氏や男友達に「お前」とよばれるのは絶対に許さないという人が何人かいたのを思い出した。

「下に見られている」「何様だよ!」と言っているのを聞いて、驚いた。

 私は今までお前よびする人と付き合ったことはないけれど、何かの弾みで男の人に「お前」と呼ばれてキュンとしたことはある。

 やっぱりそこには親しみや特別感があって、どちらかというと嬉しかったのだ。

 

 

 つまり、受け取り側の感情がすべてだということ。

 

 

 受け手じゃないのに口を出すのはあたおかだし、そんなわけのわからないクレーマーに謝る必要は、全然ない(企業だから謝らざるを得ないのだろうけど)。

 

 

 ああもう本当に、誰かが公衆の面前で謝らないと事がおさまらない、というのはやめにしませんか、とうんざりしながら願う令和の春。

 

 

 

 

 

 

 

#98 泣虫小僧  林芙美子著

 

 

 先日、元関脇の妻が娘を虐待した(暴行)罪で逮捕された報道を見ていたら、「毒親」という言葉が議題に上がっていた。

 

 体罰は勿論、過干渉や価値観の押し付けなど、とにかく子どもに悪影響を与えることが即ち毒であり、それをする親が毒親といわれるらしい。

 街頭インタビューでは、若者が「親に怒られて外に追い出されたりしたことがある(=ウチも毒親だった!)」、年配の方が「子どもにすごく干渉してしまった(=毒親だったかも……)」などと答えていた。

 

 

 私の母は、今でこそ甘々の仲良し母娘だけれど、子どもの頃は躾にめちゃんこ厳しくて、頭を叩かれるなんて普通にあった。

 デパートで欲しい物を買ってもらえず、野田クリスタル並に床に寝転がって泣き喚いたらそのまま置いて行かれたし、一番のお仕置きは真っ暗な物置小屋に閉じ込められることだった。

 更に、超がつくほど過保護でもあったから、あれこれ口を出すのは日常茶飯事、友達や恋人を良い/悪いとジャッジし付き合いを認めないことも度々あった(それに関しては私も絶対に譲らず自分で判断していたが)。

 

 当時は当然嫌だったし怖い思いもした、けれど、私は虐待を受けたとは一ミリも感じたことはないし、母を恨んだこともないし、ましてや毒親だなんて思うはずもない。

 母がしてきたことが全て愛情に裏付けられていたからだというイイ話ではなくて、そうなんだけど、それよりも、「そのくらいはするよ、そりゃ」と理解ができることの方が大きい。

 母親だって、理不尽に苛立つ日もあれば、子どもが鬱陶しい時もある。そうでなくても、ダメなものはダメとはっきり叩き込みたい信念や、とんでもなく我儘なこいつ(私)をこのまま世に放ったらヤバいという危機感もあったかもしれない。

 

 今、人々が毒親毒親だというのは、私から見れば騒ぎ過ぎでしかない。

 逮捕されるレベルの場合は別として、適度な(と思って与える)お仕置きや干渉で“毒”とか言われたら、じゃあ何、一体どうやって一人の人間を18年保護していけばいいわけ? と、子育てする予定のない身分ながら思う。

 

 

 さてこの小説は、まだ若い未亡人の女性が、新しい恋人との時間を最優先すべく子どもを姉妹の家へ押し付けるお話。

 

 概略だけ見ればこの母親もまた毒親だと、多くの人は思うだろう。

 一回目に読んだ時は、私も、なんて非道い母親なんだ! と思った。

 親戚中をたらい回しにされる少年目線で話を追えば、そりゃあもう不憫で不憫で仕方がない。

 

 しかし、毒親ってなんだろうと一旦考えてから改めて読んでみたら、母親には母親の、預けられた先の人たちにもそれぞれの都合と思惑があって、この子が悪いわけではないけどなんかしょうがないんだよなあ、と大人目線で冷静に眺める読み方になった。

 

 

「あんたみたいなひとは、本当にお父様のお墓の中へでも行ってしまうといいんだよ! 何時でも牡蠣みたいな白目をむいて一寸どうかすれば、奉公人みたいな泣方をしてさア……ええ? どうしてそんななのかねえ、おじさんだって可愛がれないじゃないか……」

 

 にしても、牡蠣みたいな白目って!

 

 このお母さん、実際非道いには非道くて、死んだ父親似の息子の顔からして気に入らない。とくに特徴的な目が亡夫を思い出させるのだろうが、その当たりの強さはちょっと行き過ぎに見える。

 が、人間の目を牡蠣で喩えるなんて著者のセンスが溢れすぎていて、小僧に同情しながらつい笑いたくなってしまった。

 

 

 小僧よ、可哀相だけど強くなれ!

  

 

 

 今、子育てしている最中の人たちは子どもに気を遣い過ぎていて、大事に大事にされている子どもに羨ましさがないわけでもないが、親が子に媚びる関係性に感じる気持ちの悪さの方が大きい。

 親が子どもに干渉し、自分の価値観で物を言い、子どもにも同じものを求めるのは、当たり前といえば当たり前だし、子どもだって本当に嫌なら黙っちゃいない。いい意味でもっと雑に扱ってもいいような気がする。

 

 

 果たして泣虫小僧は将来、母とは真逆の母性豊かな女性に惹かれるのだろうか、それとも、さんざん冷たくされても結局「お母さんといたいよぉ」と願い続けた心そのままに、母に似た人を愛するのだろうか。

 

 切ない中にも、まだ未来に光は射している、そんな小説だった。

 

 

 

 

#97 赤い長靴  江國香織著

 

 

 日和子はくすくす笑ってしまう。

 

 このくすくす笑いが作中15回も出てきて(思わず数えた)、私の神経を逆撫でっぱなしだった。

 印刷ミスなのではないかと、ありえない疑いを持つくらいの頻度でくすくす笑うのを見るたびに、うんざりした気持ちになる。

 

 

 日和子が笑うのは、少しも面白い場面ではない。

 怒って相手に詰め寄っても良さそうなタイミングで、くすくすくすくす笑う。

 

 

 何が可笑しいんだ。馬鹿にしてるのか! と言いたくなる私を尻目に、対する夫は気にする様子もなく、キレたりもしない。そもそも妻のくすくす笑いだけでなく、いつだって、どんな話だろうと聞いていないからだ。

 

 本来は、話が噛みあわない夫の方に、「ちゃんと話を聞け」「妻と向き合え」と文句を言いたくなりそうなものなのに、それを上回って日和子に苛々する。

 苛められっ子が、泣きもせず、やり返しもせず、へらへらと笑い、苛めっ子をますます助長するのと似ている。

 

 

 

「あれ、早かったんだね」

 風呂から上がり、こざっぱりした顔で逍三が戻ってきたとき、日和子は廊下で文庫本を読んでいた。

「鍵、フロントに預けてって言ったでしょう?」

「俺の方が早いと思ったんだ」

 逍三はもごもごと言う。鍵をあけ、部屋に入ると、

「早かったんだな」

 と、くり返した。それが逍三流の詫びであることが日和子にはわかる。それで途方に暮れてしまう。さらに怒るのは大人げないし、そんなことをすればかなしくなるだけだからだ。

「もう、いいわ」

 それで、そう言った。

「でも、本があってよかったな」

 唖然とし、それから日和子は笑いだしてしまう。くすくすと、そしてからからと。

 

 いやいや、どうしてフロントに鍵を預けなかったの? って訊いてるの。おかげで廊下でずっと待つ羽目になったのに。なぜそんな簡単なことが言えないのだろう。本があってよかったな? あなたがそんなこと言う筋合いないでしょ。そのくらい言ったっていいのが夫婦じゃないの?

 

 

 聞いていないことはわかっていた。テレビに気をとられるあまり、椅子ごと横を向いているのだから。

「聞いてる」

 逍三はこたえた。

「善意だろ?」

「そうよ。前を向いて食べて」

 逍三は従った。

 二分後に、逍三の椅子が再び横を向いたとき、日和子はくすくす笑いだしてしまった。

 

 

 どうしてこの二人は夫婦という形を十年以上も維持しているのだろう。

 

 日和子は、人見知りではあるがパートの仕事に出たり旧友と集ったりテニススクールに通うくらいの社会性はある。

 さらには、夫がいなくても自分は大丈夫だし、夫には私がいなくても大丈夫、とまで認めている。

 

 逍三も、人付き合いは悪いものの会社では部長になるくらいだし、暴力、アルコール依存、浮気、どれもしていない。

 

 外から見れば、羨むほどではなくても、うまくいっている夫婦。

 

 けれど日和子は、わかっている。

 くすくす笑いは、本当のことを隠すための防具なのだ。

 怒ったり喚いたりすれば表面化してしまうことを封じ込めるには、小さく笑うしかない。

 

 そんな誤魔化しで成り立っている夫婦生活が幸せかどうかなんて、私には、そうだともそうでないとも断言できない。

 誰だって、多かれ少なかれ妥協したり見て見ぬふりをしなければ破綻してしまうことがあるから。

 

 それでも私は、日和子のくすくす笑いに苛立たずにはいられない。

 

 お願いだから、誤魔化さないでくれ。

 頼むから、目を逸らさないでくれ。

 そんなの嘘だ! 

 

 そう思うのに、くすくす笑いは止まらない。

 

 私が馬鹿正直すぎるのだろうか。

 

 

 

 

 だから私は結婚できないのかもしれない。

 

 

 

#96 静かに、ねえ、静かに  本谷有希子著

 

 

 え、え、え、エグい!!!

 こんなに容赦なくえぐってくる話って、あるだろうか。

 

 

 恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい

 

 たのむから、そこは触れないで。そんなに追求してこないで。それは言わないで。そういうところを公衆の面前で晒されるような恥ずかしさ。

 拷問だ。拷問でしかない。

 

 

 

 三つの中編がおさめられている中の一編『本当の旅』は、若者とはもう言えない年齢の三人がマレーシアへ貧乏旅行をする話。

 ほとんど全ページで、私は「穴があったら入りたいのに穴がなくて入れない(から地面でのたうち回る)」地獄に陥った。

 

 

 何でもかんでも「感謝!」とありがたがり、それに気づていない人を「可哀想」と言う彼らは、お金から、ルールから、社会から、「自由である」ことを支えに自分を保っている。

 あらゆるネガティビティから目を背け、これでいいのだと言い張り、言い聞かせ、思い込まなければ今にも崩壊してしまいそうな自我が、痛々しくて見ていられない。

 

「そりゃあさ、お金があってANAとかJALとかに乗れる人は当たり前みたいに荷物預けて、好きなものが好きなだけ持っていけるかもしれない。けど、それって本当に旅を満喫してるって言えるのかなあ」

「わかる。言いたいこと、わかる」

「結局、お金がある人達はさ、自分がものすごく損してるってことに気づけないんだよね」

「可哀想だよね」

 

 

 お金があったら即ち幸せではない。

 それは、私もそう思う。お金があっても満たされない人はいる。

 けれど、お金はあった方がいい。絶対に、ないよりは、ある方がいい。

 

 お金があるということは、選択肢が増えるということだ。

 潤沢にお金がなければANAにもJALにも乗れずLCC一択であるのに対して、お金がある人はANAを選ぶことができるのと同じようにLCCに乗ってみることだってできる。

 持ち駒が一つしかない人間が、選択肢の多い人を羨ましがらないのはいいとしても、「可哀想」だと下に見ようとするのはお門違いで、逆に自ら負け犬認定シールを顔に貼っているようなものだ。

 

 

 ポジティブシンキングと強がりの境目って、どこにあるのだろう?

 

 よく、ポジティブ/ネガティブの例としてコップの水が使われる。

 コップに半分水が入っているのを見て、「半分も入っている」と考えるか、「半分しかない」と嘆くのか。

 

 彼らがしているのは、「まだ半分もある」というポジティブシンキングではない。

 コップの水に泥が混ざってしまったのに、「これは泥水じゃない」と言ったり、あるいは「この泥にこそ栄養があるのだ。むしろありがとう!」と言っているだけだ。

 

 泥は泥だし、栄養はない。

 ろ過したり新しい水を入れたり何らかのアクションを起こしきれいな水を得る努力は一切放棄して、問題をすり替え、汚れを無かったことにして、ありがたがっている。バカ過ぎる。

 

 これを、「バカだなー」と笑い飛ばして終わらせられないのは、第一に、私自身にもそのような愚かさがあった(今もないとは言い切れない)から。ああ、恥ずかしい。

 

「僕らの人生はなんのためにあるべきかなあ」

と僕が思わず漏らすと、

「やっぱりさ、」

と路上で始まったカラオケの歌声に体を揺らしながらヤマコが口を開いた。

「ヴァイブスっていうか、ヴァイブレーション?」

目は閉じたまま、ヤマコは言った。

「あー。はいはい」

「やっぱ究極そこだよね」

「結局、私達の一挙手一投足。言動。思考。呼吸みたいなものすべてが、共有されていくイメージを持ち続けること?」

 

 

 こういう気持ちの悪い会話、聞いたことある。いや、そこにいた私も、きっと同じようなことを言っていたと思う。

 

 

 この本の恐ろしいのは、雑に蓋をすることを許してくれないところ。臭い物をしかと嗅げといわんばかりに鼻先に突き付けてくる。

 

「きっと」じゃないだろ。確実に言ってただろ。

 

 ハイ。言ってましたすみません。

 

 まさに黒歴史の玉葱を一枚一枚めくられていくような嫌な気持ちになって、誇張ではなく吐き気がする。

 

 

 それともう一つ笑えない理由は、僕が薄く「本当のこと」に気が付いているから。

 

 何かが違うんじゃないか、このままではマズいんじゃないか、常に違和感と不安があるから自信がない。

 だから、せめて、SNSでいいね! と言われるように必死になる。

 目の前にある物そのものではなく、どう映るか、どう見られるか、そればかりを考えて、それがすべてになる。

 

 

 もう二度と読みたくないと恨めしいくらい打ちのめされて思うのは、この小説が、ハッピーエンドでなくて良かったということ。

 もしこれがなんだかんだでハッピーエンドだったら、私は著者を嫌いになったと思うけど、本谷有希子はそんなことしない。バッサリと残酷に斬る。

 

 そうあるべきだと、そこだけは胸のすく思いになった。

 

追記:読後、読書メーターに載っている感想文をいくつか読んだのだけど、思いのほかあっさりした感想が多くて、自分にとっては悶絶必至でも誰かにとってはかすりもしないボール球という当たり前の事実に驚いた。

 

 

 

 

#95 ある自殺者の手記  小酒井不木著/ ある自殺者の手記  ギ・ド・モーパッサン著

 

 異なる国で同名の小説が存在するのはただの偶然なのか、後に生まれた方(本作でいえば小酒井不木)がインスパイアされて書いたのか。別に調べるほどのことではないけれど、なんだか不思議。

 

 この二作はどちらもタイトルのまんま、ある人物が自殺をする前に書き残した内容が短編そのものになっている。

 いずれもストーリーテラーのような役割の語り手が簡単なイントロダクションを述べた後に手記が続く、という構造も同じ。

 

 しかし当然ながら、どんな人物が、なぜ自殺を決意したのかはまったく違っていて面白い。

 

 小酒井不木の方はミステリで、一人の男が自殺する際に二人の道連れをつくる。つまり、自殺をしながら他殺もしていて、しかも遺された者には三人の死の真相はわからない仕組みになっている。

 

 

 片やモーパッサンは、五十七歳の男の手記。

 これといって死ぬほどの苦難はなく、ただ、三十年同じ事の繰り返しで生きていることに虚しさがつのり、ついに彼は死を選んだ。

 

 

絶望の果てに決行されるこうした行為の裏面に、世間の人が極って探し求めるような大きな破綻は、一つとして述べられていない。

かえってこの手記は人生のささやかな悲惨事の緩慢な連続、希望というものの消え失せてしまった孤独な生活の最後に襲って来る瓦解をよく語っている。この手記は鋭い神経をもつ人や感じやすい者のみに解るような悲惨な最後の理由を述べ尽くしているのである。

  

 単調な中に幸せを見出せていたはずの過去もあったのに、今は全てが色褪せて、つまらない。

 たったそれだけのことを理由に死ぬなんて命を粗末にしている、という見方もできるかもしれない。

 仕事があって家があって健康なのに贅沢だ! と思う人もいるかもしれない。

 けれど私は、ある程度生きてきて、些末な積み重ねで溜まっていく倦怠感は決して侮れないことがわかるし、だから、この男の心に空いた穴の暗さも寂しさも、沁みる。

 

 

何もかもが、なんの変哲もなく、ただ悲しく繰返されるだけだった。家へ帰って来て錠前の穴に鍵をさし込む時のそのさし込みかた、自分がいつも燐寸(マッチ)を探す場所、燐寸の燐がもえる瞬間にちらッと部屋のなかに放たれる最初の一瞥、――そうしたことが、窓から一思いに飛び降りて、自分には脱れることの出来ない単調なこれらの出来事と手を切ってしまいたいと私に思わせた。

 

 言いようのない無気力と孤独の表現がすごく巧い。

 

 ぶ厚いオーバーコートを着た少し猫背の初老の男が、一日の仕事を終え、家路につき、誰もいない部屋でもそもそと食事を摂り、ベッドに入る。

 手記を読みながらずっとそんな映像が鮮明に浮かんでいた。

 

 外国文学(の翻訳文)を好まない私でも、モーパッサンという人の名前はさすがに知っていたけれど、その人となりやどんな作品を書く作家なのかは全く知らなかった。

 どうやら彼自身精神を病み、自殺未遂の経験もあるようで、著者自身に俄然興味が湧いてきた。

 

 これから少しずつ読んでみようと思う。