乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#153 白  芥川龍之介著 

                                    

 

 たまたま読書メーターで見かけて、白い何の話なのかと思いつつ読み始めたら、白い毛で白という名の犬目線の話だった。

 

 白が、ある事件を機に黒になり、また白になる。

 というと童話っぽく聞こえるが、単に犬の毛色の話ではないように思えた。

 

 一般的には白=善で黒=悪のイメージだけれど、犬の白は臆病ゆえに犬殺しに立ち向かうことができず、逆に黒犬になってからは勇敢に闘っている。

 

 白と黒の入れ替わり、つまり善と悪の逆転というのは『桃太郎』(同著者)でも書かれていた。

 

 本作を読んで、私には善と悪を問い質したい気持ちが強くあるのだと気付いた。

 それは正義感ではなく、猜疑心からくるもの。

 

 実生活においては白黒はっきりつけようぜ! というタイプではなく、むしろ曖昧でいいくらいに思うことが多い。

 けれど、当たり前のように「これは善(あるいは悪)です」と差し出されると、本当に? と疑ってしまう。

 

 だから小説でも、世間では良しとされているものをそうではない角度から切り込んでいくものが好きだし、綺麗事を並べられるとうえーっとなる。

 

『傲慢と善良』(辻村深月著)が1ミリも刺さらなかったのも、こういう私のひねくれながらも大事にしている美学によるものだと改めてわかる。

『彼女は頭が悪いから』(姫野カオルコ著)『さらさら流る』(柚木麻子著)では、あんなにはっきりとした悪=性加害者だけが悪だとは思えず、被害者女性に100%は同情できなかった。

 他にも、『fishy』(金原ひとみ著)では、不倫ってそんなに悪いこと? と首を傾げ、『コンビニ人間』(村田沙耶香著)では「普通」とされるコンビニの人や古倉さんの同級生(健全な市民)の方が余程気持ち悪いと感じた。

『砂の女』(安部公房著)で言えば、安定的なソトの世界より砂掻きの日々の方が案外いいのではないかとか、『人魚のひいさま』(アンデルセン著)の王子はただのチャラ男だとか。

 

 

 挙げ出したらきりがないくらいのひねくれ者じゃないかと、我ながら呆れる。

 

 

 でも、法律的なことは抜きにして観念としての「これは善」「これは悪」という決めつけなんて本当は誰にもできないし、なのに勝手にみんなそう思うでしょうと決めつけられることには我慢がならない。

 

 とはいえ自分自身もそれ(善悪のジャッジ)をしてしまうことがあって、ジレンマに陥ることだって勿論ある。

 

 まあなんだかんだ言っても白でも黒でもないことの方が多いわけだけれど、基本的に私は悪桃(芥川の書く桃太郎)が好きだし、世の中そんなもんよと思っている。

 

 

 はて、私は一体いつからこんな思想を持つようになったのだろう?

 

 なんとなく思い当たる節はあるけれど、それはまた別のところで書くとして、自分の読解傾向が露わになるという思いがけない結果となる一冊だった。

 

 

#152 逆さに吊るされた男  田口ランディ著

 

 

 オウム真理教の元死刑囚・林泰男の外部交流者として面会を続けた著者が書いた、小説の形をとったドキュメンタリー。

 

 あの地下鉄サリン事件の時、他の実行犯メンバーよりひとつ多くの袋を担当し、何度も傘でサリンの入った袋を突き刺した林を、世間は「殺人マシン」と呼んだ。

 

 実際の彼(小説の中ではY)は世間のイメージとはかけ離れた穏やかで優しい人だったということらしいが、じゃあその罪がチャラになるかといえばそうではない。絶対に。

 

 ただ、そんな人がなぜ? という疑問は自然湧き起こる。

 

 まさにその疑問を解くべく、著者(小説では羽鳥よう子という小説家)はYにストレートに質す。

 

「じゃあ、なんのために教団に残ったの? 同じように反感をもって去った人たちもたくさんいたでしょう。どうして、最後まで教団にいたの?」

「そのとき、自分は逃げようと思わなかったの?」

 

 次々投げかけられる質問に対しYは、「怖かったのもある」「既に犯罪にも加担していた」などそれなりの返答をするが、私には最終的に絞り出された言葉が強く印象に残る。

 

……私は、教団にいる仲間が好きだったんです。

 

 こんなこと、凶悪事件に加担する理由にはなっていないようにも聞こえる。

 けれど、これこそが、という気がしてならない。

 

 

 私の経験からいうと、高校生までは自分の世界のほとんどは学校でできていた。

 クラスの中でどのようなポジションにいるか、どんな友達がいるか(いないか)、先輩や後輩や教師との関わり方、時々できる他校の友人や恋人との繋がり、その小さな世界で楽しいことも嫌なこともあって、だんだんと自分の価値観や処世術のようなものが形成されていく。

 

 ところが、大学に入ってしまうと、「クラス」とか「部活」みたいなはっきりとした区分けは曖昧で、積極的に参加すればがっつりその輪の中だし、別に興味がなければ何かに属している感覚はものすごく希薄になる。

 言い換えれば、「仲間になる」ことは能動的にならないと難しい。

 

 これは大人になればなるほどそうで、社会に出たら今度は「仕事」で繋がることが増えるので、純粋な友達とか仲間というニュアンスの存在は貴重になっていく。

 また、経済状況や未婚既婚の違い等で付き合い方も多様に分かれていくから、仕事上では同士だとしても私的な連帯感はないということも多い。

 

 

 私が思うに、オウムにいた人たちは、大人になってから(もしかしたらそれ以前から)なかなか「仲間」と思える人に出会えなかったのが、同じ教団にいるだけで共通の信念を持ち共通の目的を目指す人たちと深く関係を築ける、そういうところにものすごい居心地の良さ、もっといえば快楽を感じていたのではないだろうか。

 

 

 つまり、孤独だった。そして、今は孤独ではない。

 

 

 修行は大変でも、仲間と繋がっているという甘美が勝る。

 教団の方向性がだんだんとおかしな方に変っていっても、見逃してしまうほどに。

 

 

 それと似た感覚を、バックパッカーだった頃に感じたことがある。

 

 行く先々で出会った人と、ある程度の時間をともに過ごしていると、熱にうかされたような感じになることがあった。

 

 もともと「旅」という共通項があるから親近感を持ちやすいところから始まり、互いの垣根も低いから、ぐっと親密になる。

 能動的になろうがなるまいが、「仲間」との出会いが自然にやってくると、自分が新しい世界に飛び込んだのだと錯覚した。

 だから、良くも悪くも影響を受けやすい。

 

 たとえばある街にしばらくいた時、なぜかスピリチュアルな人ばかりが周りにいて、私もなんとなくそっちに染まろうとしていた。染まりたかった。でも根っこの部分で私はその雰囲気に染まりきれない性質だったので、結局は違和感を払拭しきれず順応することはできなかった。

 

 もし私がそこにフィットするタイプの人間だったら、今頃妖精が見えると言ったり誰かの前世を占ったりしていたかもしれない。

 幸い(?)そこまではいかなかったけれど、思い返せばその時期私の発していた言葉はすごく気持ちの悪いものだった。

 

 

 オウムの人たちも、運悪くフィットする場があそこだった、そして運悪くそこに入る機会を得てしまっただけだと言える。

 

 事件の被害者やご遺族のことを思えば「運が悪かった」で済まされることではないのだけど。

 

 

 さて小説に戻ると、著者はどんどん事件の真相を究明することにのめり込んでいき、いつしか自分を見失っていく。

 感受性の強さから、知れば知る程自己が乱されていく様子がうかがえる。

 

 個人的にはもっと冷静に解明していくようなものを期待していたので、そのあたりの心情を語られると正直センチメンタルが過ぎるという感想を持った。

 

 

#151 桃太郎  芥川龍之介著

 

 

 日本で育った者ならば、昔話といえば桃太郎を真っ先に思い浮かべる人が圧倒的大多数だろう。

 そのくらい有名な桃太郎。桃から生まれた桃太郎。犬猿雉を連れて鬼ヶ島へゆき、果敢に鬼退治をした正義の味方、桃太郎。

 

 

 しかーし

 

 

 芥川龍之介にかかれば、スーパーヒーローだったはずの桃太郎が完全にアウトローになって大暴れ。これが面白いのなんの。

 

 

 童謡では、「あーげましょう あげましょう♪」と気前よくキビ団子をあげる桃太郎だけど、本作の中では「半分しかやらん」と渋っている。

 

 

 私がいちばん好きなのは、桃太郎が鬼退治に行こうと思い立った理由。

 

思い立った訣(わけ)はなぜかというと、彼はお爺さんやお婆さんのように、山だの川だの畑だのへ仕事に出るのがいやだったせいである。

 

 正義感でもなく、宝物欲しさでも名誉のためですらなく、単に野良仕事がいやだというのがそもそものはじまりとは!

 

 それに続くキビ団子ケチケチ事件も、鬼ヶ島を征伐しても宝物は一つも分けてやらないと先に言っておく周到さも、なるほど頷ける。

 

 桃から生まれたというところは昔話と同じだし、その木は黄泉の国に及ぶ根を張っているという設定は昔話以上に幻想的だというのに、生まれた桃太郎は反してものすごく人間臭い。

 

 一方、悪者として登場するはずの鬼は、実は全然悪いことはしていなくて、美しい楽園みたいなところで穏やかな暮らしを営んでいる。

 鬼からすれば人間の世界の方がよほど恐ろしいと信じているのだ。

 

 そんなところへ突如攻撃をしかける桃太郎一座は正義の味方どころかもはやタチの悪い輩!

 

 でも、なぜかこの暴君・桃太郎を最後まで憎めないのは、誰にでもある怠慢や強欲を隠さない正直さがあるからだと思う。

 

 

 もし私に子どもがいたら、こっちを読ませたいなあ。教育上どうかは知らないけど。

 

 

#150 傲慢と善良  辻村深月著

 

 

 婚活サイトで出会った婚約者が突然姿を消した。

 彼女がほのめかしていたストーカーが絡んでいるのか、はたまた……

 

 外枠はミステリで中身は婚活というキャッチ―なトピック。

 巧妙な仕様にまんまと私も乗っかって読んだ。

 とはいえ、帯に「人生で一番刺さった小説との声、続出」とある通り、読書メーターで次々投稿される「刺さりました」という感覚は、私にはなかった。

 

 

 婚活していないし、した経験もする予定もないから?

 

 否。

 

 婚活している/していないはあまり関係ない気がする。

 

 

 思うに、「刺さりました」という人はつまり自分の傲慢さに無自覚に生きてきた人。

 自分はそれほど傲慢な人間ではないと信じてきたからこそ、登場人物の傲慢さを露呈されることで初めて己にも思い当たる節があることに気付いてはっとするのではないだろうか。

 

 ディズニーランドの住人なの? というくらい、良く言えばピュアだし、皮肉を含ませるならイノセント。

 それにしても、こんなに多くの人が自分が傲慢だと知らずに済んできていることに驚き、そっちの方が余程傲慢なんじゃないかと意地悪く思いながら絶えず湧いてくる「刺さりました」の声にうんざりする。

 

 私はそんなこと知っていますよと、悟り顔でマウントを取りたいわけではない。

 ただ、私は自分の傲慢な部分を嫌というほど見てきたから、否応にも自覚せざるを得なかった。

 婚活はしていなくても恋愛においてはとくに傲慢だったし、その分失敗もした。

 それで自己嫌悪に陥ることもあったし開き直ることもあったが、ともかく知ってはいるので、架(かける)の傲慢さに改めて動揺することはなかったし、善良の皮を被った真実(まみ)のやはり傲慢な一面にも、そういうものだろうくらいにしか思わなかった。

 

 

皆さん、謙虚だし、自己評価が低い一方で、自己愛の方はとても強いんです。傷つきたくない、変わりたくない。――高望みするわけじゃなくて、ただ、ささやかな幸せが掴みたいだけなのに、なぜ、と。

 

 結婚相談所をやっている小野里さんというおばさんの言葉は、ちょっと見芯を食っているので、こういうところが「刺さる」のだろうなということはなんとなく理解できる。

 

 自己評価と自己愛の微妙なニュアンスの違いを使って、「私なんて」と謙遜しながら決して妥協はしたくない最大公約数の「それな!」を誘う。

 

 そして、「自分の傲慢さを自覚している」と言っている私こそ傲慢なんじゃないかと思わされ、これも傲慢あれも傲慢の傲慢ループが始まる。そもそも人間は傲慢な生き物だからキリがない。

 

 しかしこのおばさんの言うことも、あてになるようなならないようなところがある。

 

「――婚活につきまとう、『ピンとこない』って、あれ何でしょうね」

 

 という架の問いに対し、小野里さん曰く、

 

「ピンとこない、の正体は、その人が、自分につけている値段です」

「値段、という言い方が悪ければ、点数と言い換えてもいいかもしれません。その人が無意識に自分はいくら、何点とつけた点数に見合う相手が来なければ、人は、ピンとこないと言います。――私の値段はこんなに低くない。もっと高い相手でなければ、私の値段とは釣り合わない」

 

 

 この部分で小野里さんに対する不信感が生まれた。

 

 ピンとくる・こないは、そういうものではない。

 もっと動物としての第六感のような、本能的なものだ。

 

 だから理屈では説明ができないし、できないけどただどうしようもなく惹かれたりあるいはどうしても受け入れられなかったりする。俗にいう「生理的に」という感覚なんかがその一つだと思う。

 

 小野里さんが言っているのは「打算」であって、むしろ「ピンとくる」とは真逆の、理性による損得勘定に近いことを指しているだけだ。

 

 こういうタイプの人もまた、『夏物語』(川上未映子著)の善百合子同様、新興宗教の教祖になる資質を匂わせるので警戒してしまう。

 

 

 

「対して、現代の結婚がうまくいかない理由は、『傲慢さと善良さ』にあるような気がするんです」

 

「現代の日本は、目に見える身分差別はもうないですけれど、一人一人が自分の価値観に重きを置きすぎていて、皆さん傲慢です。その一方で、善良に生きている人ほど、親の言いつけを守り、誰かに決めてもらうことが多すぎて、“自分がない”ということになってしまう。傲慢さと善良さが、矛盾なく同じ人に存在してしまう。不思議な時代なのだと思います」

 

 

 ということなのだけど、私は傲慢さよりも善良さの方がよりタチが悪いような気がする。

 善良さそのものは文字通り良いことだとしても、真実みたいなさも善良のようでいて裏に保身や企みが貼り付いたものは善良っぽい何かであって善良ではない。

 

苦しくて、そして、悲しかった。私にこんなことをさせる、架くんが。

 

 小説の後半は、姿を消した真実目線の部になるのだけど、のっけから、自分のとった嘘の行動について真実はこう思っている。

 

 こんなこと(虚偽)は自分の意志であるはずなのに、架に「させられた」としているのは傲慢ではなく何だというのだろう。

 

 もちろん、きっかけや原因の一部は彼にもあったと思うが、他にも方法はある中でその作戦を選んだのは他でもない真実だ。

 

 真実は、進学も就職も、そして結婚相手選びまでも母親の気に入るように生きてきた女性なので、強いて誰かのせいにするならば母親のせいにすべきだ。

 それだって、同じ母を持つ姉は親の敷く「ちゃんとした」レールから離脱し、自分の道を切り拓いたのだから、母親だけのせいではない。

 小野里さんのいう「自分がない」にもほどがある。

 

 善良に生きてきたのに、なぜ?

 私が泣いているのに、気付いてくれないの?

 

 相手の気を引くために嘘の演技をした挙げ句姿を消すというのは、注目を集めようとする子供そのものだ。

 

 

 読書メーターで「刺さった」に次いで目を引いたのが「架の女友達がムカつく」という感想だった。

 確かに、あけすけによく知りもしない他人(真実)を馬鹿にし、男友達(架)を取られる嫉妬心を剥き出しにする彼女達はスマートではない。嫌な女だと思うし、そんな女友達と親しくしてきた男と結婚なんて私はしたくないけれど、悪意を悪意として出している彼女たちの方が真実より好感が持てる。

 

 

 ということで、主人公二人が結局どうなろうがどうでもよくなってしまった。

 くっついたとしても近い将来うまくいかなくなるんじゃないかとまた意地悪く予測して、最終的にはこの小説が刺さらない自分が偏屈じじいのように思えてきて、なんだか嫌な気分を引きずっている。

 

 

#149 秘祭  石原慎太郎著

 

 

 私は著者をはじめ石原家のことも、ひいては石原軍団についてもほとんど知識がない。

 なので、友人からこの本をもらわなければ一生石原慎太郎が書いたものを読んでみようという発想はなかったかもしれない。

 

 都知事だったことはさすがに知っていた(一応都民だったし)が、政治に興味がない私にとっては「裕次郎の兄でお天気の人(良純)の父」という認識の方がまだ馴染みやすい。

 とはいえ裕次郎世代でもないので、漠然となんだかすごい大物揃いの一家というイメージを持つ程度。

 

 軍団(石原プロ)のことも、聖輝の結婚→神田正輝=石原軍団という三文記事的情報源から初めて存在を知り、それから他のメンバー(どれだけ醤油や塩が流行ろうが、うちはソースでいきます! みたいな濃い面々)を「あの軍団の人」として見るようになった。

 

 そんな雑な先入観からすると、ごりごりの男臭い世界(政治家・財閥・裏金みたいなやつ)を書きそうな著者であるが、この小説を数ページ読んだだけで、あらゆる思い込みは百八十度覆されてしまった。

 

 

 とにかく驚いたのは、文体の美しさ。

 

 それにしても、このひきこまれるほど澄んだ玻璃の水と白い砂、緑の島々の全景を空の高みから眺めたならどんなに素晴らしかろうか。渡しの小船のいく航路の周囲の水の下にひそむ無数の暗礁は、驚くほど目まぐるしく鮮やかな変化で展開していく。僅かな水深の違いで、水中の岩礁は射しこむ光を浴びてきらめいたり、さらには群がる魚たちの華やかな色どりまでを垣間見させる。と次の瞬間、岩礁は切れ、深い白砂の水底を映して虚しいほど青く明るい水がつづく。そしてまた次の水中に輝く岩礁、さらにその向うに突然浮き上ろうとする獣のように波に背を洗わせて現れる岩。

 

 

 まさに出だしの一頁目から二頁目にかけて。

 沖縄の離島が舞台なので、この後も自然溢れる風景描写が多く出てくるのだけど、それらは全て著者が実際に見た海や島を書いているはずだ(後記に「八重山に想を得た」とある)。

 

 

 あの石原慎太郎が「虚しいほど青く明るい水」だなんて!

 むむ。おぬし、やるな。と、何目線かわからない感心の仕方をしながら、気付けばどんどん物語にのめり込んでいた。

 

 

 主題である秘め事に関して詳細は書かないでおくが、文体の調和はそのままに余所者(僅か17人の住民しかいない島にリゾート開発の会社から遣わされた主人公)が謎に迫っていく展開は、読み手も同じく余所者の一人として一緒に探っていく感覚になる。

 

 そして最後の最後まで、ソトの者はソトの者で絶対にウチには入り込めないのだという確固たるルールが厳かに守られ続ける圧巻のラスト。

 ホラー的怖さもありながら決していき過ぎていない、絶妙の匙加減で物語は終わる。

 

 

 こんな文才のある人だったのかと、今になって知ることができただけでも私にとっては一読の価値のある一冊だった。

 

 

#148 fishy  金原ひとみ著

 

 

 某女優のW不倫で世間が騒がしい。

 有名人の不倫が暴露される度に、「当事者の問題」であり「家族や関係者に謝罪すればいいこと」という意見が出てくるにもかかわらず、やっぱり外野から大衆はやいのやいの言っている。

 

 私も大衆の一人としてネットニュースを見たり、記者会見を見たりもする。

 完全に好奇心からだけれど、見たからといってどうということはない。

 どこまでいっても所詮他人事、それに尽きる。

 

 この手の騒動で最も理解できないのは、無関係のどこの馬の骨かもわからない人間が匿名で残す「子どもがかわいそう」という言葉。

 子どもだろうが大人だろうが、かわいそうかどうかを決めるのは見ず知らずの他人ではない。

 何をもってかわいそう認定しているのか、お前は何を知っているのか、何様なんだよ、と暴力的な怒りすら覚える。

 そしてまたその怒りも結局は自分事ではないので自然と消えていく。

 

 

 それにしても不倫はそんなに悪なのだろうか。

 善行だというつもりはないが、そこまで(悪い)? というのが個人の思い。

 

 というのも私にもその経験があるからだ。

 

 二十代半ばから三十代前半にかけて、3人(+1人はかなり特殊な状況だったので一般的な不倫と言えるか判定できない)の既婚子無し男性と付き合った。

 私の場合は自分が独身だからWになることは絶対にないのだけど、我ながら私は不倫に向いていたと思う。

 向こうの家庭を壊そうなんて発想はなかったし、相手を独占したいと思ったこともないし、むしろ束縛されることなく週末は自由に使えて、相手は負い目があるのか常に優しいし、だから喧嘩にもならないし、互いに過剰な期待も依存もなく、とにかく全ての都合が良かった。都合が良い上に、楽しかった。不倫で嫌な思い出は一つもない。

 

 

 ポーケーベールが 鳴らなくて~

 

 みたいな湿っぽい女は不倫に向いていない。

 そう、不倫には、向き不向きがあるのだ。向いていない人はしない方がいい。

 

 

 なぜこんなことを書いているかと言えば、この小説の3人の主人公のうち、1人(美玖・28歳)は不倫をしていて、もう1人(弓子・37歳)は夫に不倫をされている。

 もう1人のユリ(32歳)は自称既婚子持ちではあるが、本当に結婚しているのかすらよくわからない謎めいた設定。

 

 年齢が微妙に違う彼女たちが定期的に飲みに行き、近況報告をし合うのだが、年齢だけでなく価値観も生き方もばらばらで、それぞれが「この女のこういうとこが嫌い」という感情を持っている。

 

 

勉強? してないよ、と言いながら隠れて猛勉強しているタイプだ。自分の外見以外のことに無頓着なユリは、弓子がそういう施術を受けていることにも気づいていないようだが、私がそういうことに勘づいていることは弓子も気づいているはずで、自分がそういうことを公言したがらないタイプであることをあなたは分かっているだろうし、あなたがそういうことを暴きたてない人間であることを信じている、という無言の圧力を感じる、そういう「女性性」の塊のような粘液をマグマのごとく溜め込んでいる彼女のサバサバアピールを目にすると、今や虚しささえ感じる。

 

 

 こんな裏の裏まで分析できる(分析せざるを得ない)くらい嫌悪感を持っているのなら会わなければいいのに。

 

 

「ユリは幸せな結婚生活送ってるんじゃないの?」

「幸せとか不幸とか、そういう定義もう止めない? 幸せとか不幸とか、羨ましいとか可哀想とか、そういう相対的な考え方、身を滅ぼすよ」

 安定のユリだ、と美玖が笑い、弓子も笑った。私もよく分からないのだ。どうして自分がこういう思考回路で生きているのか。どうして人に嫌がられる性質を持ち、その性質を捨てられないのか。普通に人に好かれたいし、普通に人に認められたい。なのに普通に人に嫌われ、普通に引かれる人生を送ってきた。

(中略)

美玖は弓子と顔を見合せて笑った。これだ。いつもこの仕草の後に切り捨てられる。

 

 切り捨ててくるような人たちと、どうして繰り返し繰り返し会うのか。

 

 単に寂しいとか暇だとか他に話を聞いてくれる人がいないからとか、そういうことも考えられるけど、にしても、だ。

 こんなふうに心の中で侮蔑したり実際口に出して傷つけ合ったりしてまで集う意味ってなんなんだろう。

 

 女同士ってそういうもの。そう雑に括ってしまうのは簡単だけれど、学生時代のように同じクラスで毎日顔を合わせなければいけない関係性でもなく、仕事上の利害があるわけでもなく、個人の意思だけで維持するか終わらせるか決められるはずの関係に固執する意味がわからない。

 

 実は根底に友情があるという話でもない。

 実際ユリは他の2人のことを「友達だったことはない」と言い切っている。

 

 釈然としないものが澱のように残る、その澱こそがタイトルの『fishy』(胡散臭い・生臭い)というわけか。

 

 

 ここで、友人とのメールのやり取りの中に、「友達と話していてムカついてしまった」という話があったのを思い出す。

 

 私はその友達の友達という人を知らないので、安直に「それはムカつくね!」と同意することはせず、自分がその人側だったらどうだろうか、また友人側だったらどうだろうかと、あれこれ考えた。

 

 そこから、「人を嫌うのは良くないという刷り込みがあるからそういう感情が芽生えたのでは?」「いや、むしろもっと嫌いになりたいという感じ」と、嫌悪感の発生の仕方や育ち方みたいなことに話は発展していき、これは一体何? と未だに名前のつけられない「あの感じ」が謎のままになっている。

 それはきっと、検索エンジンにいくら検索をかけても答えは出ない感情や感覚で、良い/悪いでもジャッジできない。

 

 いずれにしても、じゃあもう会わなければいいじゃんという結論にはならなかった。

 

 小説の3人も、友達と友達の関係も、私と誰かの関係も、嫌悪や苛立ちを持ちつつ断ち切るのではなく持続し成り立っていることがある。

 

 何でも賛同できて共感できて褒め合ってわかり合って気持ちいいイコール友情ではないことは百も承知。

 そんな人とだけ付き合おうなんて思ったらそんな人なんてどこにもいなくて、誰ともどんな関係も築けないだろう。

 

 人間が生身の生き物である以上、女同士にせよ男同士にせよ、夫婦恋人親子兄弟先輩後輩、あらゆる人対人の間には生臭さはつきもので、裏を返せば無臭の繋がりは繋がりですらなく、無ということなのかもしれない。

 

 

 それはさておき、金原ひとみの「ぬるい描写は許さない」といわんばかりの徹底的にえぐる筆致は、血の流れない自傷行為なのか、あるいは快感なのか。これもまた永遠の謎ではある。

 

 

#147 コメント力  齋藤孝著

 

 

 著者は、長い文章はコメントではないと定義しているが、私はいうなればこの感想文もある本(時々映画)に対するコメントだと思っている。

 

「良かった」「面白かった」だけでは何の意味もないので、自分が感じたこと、紐づいて思い出したこと、常々考えていたことなどを、でき得る限り言語化することを目標にしている。

 それがなかなか難しく、自分の言いたいことを本当に書けたと思うのは10回に1回くらいだろうか。

 

 

 会話の中で、短いセンテンスあるいはひと言で的確かつインパクトのあるコメントを生み出すのはもっと困難であるのは言うまでもない。

 世の中に存在する「名言」の類は、もはや熟考から出た言葉ではなく偶発的に発言者の中からこぼれ出た事故(良い意味でのハプニング)のようなものなんじゃないかとさえ思う。

 

 

 さてこの本では、国内外の著名人が残した秀逸なコメントを取り上げながら、どこがどう優れているのかを解説し、また読者がどうやってそのようなコメント力を身に付けていけばいいかを教えている。

 

 例として出て来るコメントのほとんどは初見のものだったので、ああ、あれは確かに素晴らしいコメントだった! という記憶はなかったけれど、言葉そのものだけでなく、「誰が」「いつ」「どんな状況で」「どのような言い方で」を含めて多角的に分析されているので、とても参考になった。

 

 面白かったのは、『エースをねらえ!』という女子テニス漫画の宗方コーチが主人公・岡ひろみにぶつける激励の数々。

 

 幼少期にテレビアニメで見た覚えはなんとなくあるけど、子供向けとは思えないことを言っていたのが今になってわかった(昔のアニメを大人になって見返すと、これは子供にはわかるまい、ということがよくある)。

 

 テニスに打ち込むひろみも、一人の女の子として恋に落ちる。そして恋の揺らぎはプレイにも影響を及ぼす。そんなひろみに宗方コーチは言う。

 

 

「恋をしてもおぼれるな。いっきにもえあがり、もえつきるような恋はけっしてするな!」

 

 松岡修造か!

 

 

 それはさておき。

 一つ触れておかなければならないのは、コメントにはその時々の時代背景が必ずくっついてくるということ。

 

 この本が出版されたのは2004年(文庫は2007年)で、当然使用されているコメント例はそれ以前のものだ。

 

 いつを境になのか判然としないが、気付けば何を言うにもコンプラコンプラの時代になった今。

 迂闊に本音を漏らせば、やれ○○ハラだ差別だと騒がれ炎上する。

 それを避けようとするあまり、意味不明なエクスキューズばかりが先立ち、まろやかだけど結局中身のないようなコメントで溢れているつまらない世の中にももう慣れてしまった。

 

 本来コメントというのは、新しい切り口を見出したり、発言者の観察眼を知る機会でもあるはずなのに、オブラートに包まれすぎて開けてみたら空っぽというのは本当に勿体ない。

 

 反面、そう悪いことばかりでもないかもしれないとも思う。

 多数の人がこれはハラスメントではない、差別ではない、と前置きしてふわっとしたことしか言わないのだから、その中でしっかりと個人の見解としてコメントを残す人が際立つ。

 コメントの内容に同意はできなかったとしても、少なくともその人となりはわかるし、それだけで尊いと思う。

 

 

 私の好きなお笑いの世界でも、ふんわり派と、ずばり派に分かれていると思う。

 

 勿論私は後者を好むし、中でもコメント力高いなあと思うのはかもめんたる岩崎う大さん。

 それから、漫才の中で渾身のコメント力を発揮したのが2022年M1王者になったウエストランドの井口さん。

 

 通常同じ漫才を繰り返し見ることを私はしないのだけど、あのネタだけは飽きずに何度も見ている。

 

 あるなしクイズという形を取りながらの井口さんのコメント力だけで成り立っていると言ってもいい。

 

 警察に捕まり始めている!

 皆目見当違い!

 夢! 希望! 大会の規模! 大会の価値!

 

 コメントの語呂の良さと的中感は完璧だし、「誰が」「どんな言い方で」も相まっての爆発力だった。

 

 

 一般人の日常生活においても、コメントすること・聞くことは毎日のようにある。

 そしてちょっとしたコメントから、その人に対する印象や評価がぐっと良くなったり悪くなったりする。

 

 

 ありがちなのは、自慢が透けるコメント。

 自慢なんて聞いていて面白くも何ともない上に、聞き手から「すごいですね」のコメントを引き出そうとしているのが見え見えなのが無粋だ。

 こっちは「すごい」なんてコメントする気はさらさらないのに、勝手にそっちへ仕向けられるとますます褒めたくなくなる。

 

 あと、一見鋭いようでいて捻りすぎているコメントも扱いに困る。

 やはりそこにも「狙っている」という下心が透けてしまって、センスいいなあとは思えないのだ。

 

 目立ち過ぎても駄目、控えめ過ぎてもつまらない、じゃあどうすりゃいいんだという話。

 

 

 自分のことで言えば、褒められた時に返すコメントが一番苦手だ。

 日本人的に「いやいやそんなそんな」と謙遜するのが癖になっていることが嫌だなあとずっと思っていて、できるだけそれをしないようにしたいのだけど、どうしても照れや恥ずかしさの方が勝ってしまう。

 これは意識的にしないようにしていて、少しずつ直ってきているところ。

 

 目指しているのは以前映画『キッチン』の感想で書いた絵理子さん。

 

 私の中でコメント力ナンバーワンの彼女のコメントをもう一度引用して、終わりにする。

 

「今飲みたいと思ってたの!」

 

 即座にこういうひと言が出て来るにはコメント力を超えた人間力を鍛えなければ、とつくづく思う。