乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#160 犬のかたちをしているもの  高瀬隼子著

 

 

 ミナシロ! お前!!

 

 何度も何度も大声を出したくなった。

 理不尽だ。理不尽だ。理不尽だ。

 

 こんな話よく書いたな。

 それは、よくぞ書いてくれたという意味でもあって、昨年読んだ本の中で最も感情を揺さぶられた一冊だった。

 

 

 なのに、だからこそ、なかなか感想を文章化できないまま、私の怒りはどこからくるのかずっと考えていた。

 

 そもそも男女の関係においては、女はセックスを「させてあげる」側であるという事実。

 そして、女性には「母性」が備わっているのが当然だとされていること。

 

 このふたつに対して「当たり前だと思うなよ!」と私は怒っているのだ。

 

 前者に関しては、体の構造上、入れる方(男)と入れられる方(女)で、精液を出す方(男)と出される方(女)だから、能動―受動の関係になるのはどちらが良い悪いということではない。だって、そういうつくりだから。

 

 けれど、受け手側(女)がセックスをしたくない(あるいはできない)という消極的な姿勢を見せると途端に「愛情がない」と断定される。

 それとこれとは別、ということもあるなんて想像すらできない男たちに腹が立つし、同性でも無理解な人がいることにはもっと腹が立つ。

 

 

 それ故に、主人公(間橋薫)に理不尽の極みみたいなことが降りかかる。

 

 おかしい。こんなの絶対におかしい。理不尽にもほどがある。

 ふつふつと沸く憤り。憤りながら、あなたは悪くない。絶対に、全然、ひとつも、悪くないよ。そう念仏のように薫に唱える。

 

 そして、あなたはもっと怒ってもいいのだ。なぜその怒りを放出させないのだ、ともどかしさでいっぱいになる。

 

 ドトールで水をぶちまけようが、大声で喚こうが、責められる筋合いはないくらいのことが起こっているというのに。

 

 

 ここまで感情移入してしまうのは、私にも薫と重なる部分があるからだろうか。

 つきあい始めて最初の数ヶ月はセックスもする。けれど、だんだん面倒になり、煩わしさから苦痛に変わり、しなくなる。しようと思えばできるけど、我慢するのも何か違う、だからしない。

 

 薫の場合は、卵巣の病気をしたことと、セックスをすることで「相手に大切にされていないと感じる」ことが原因。

 そこは私とは違うのだけど、「だからといって相手のことを好きじゃなくなったということではない」というのは全く同じ。

 

 ただ、男性からすれば恋人なのにセックスをさせてくれない=愛情がない、と体と心は完全一致しているはずだと馬鹿みたいに思い込んでいる(ことが多い)から、女性がセックスを拒否することに罪悪感を持たざるを得なくなってくるのだ。

 

 

 薫にはつき合って3年の半同棲状態の恋人(田中郁也)がいる。

 はじめの数か月以降はセックスをしていないのだけど、郁也はそれでもいいと言い、実際薫のことが大好きである。

 

 これだけなら、双方承知の上で関係は成り立っているから問題ない。

 

 

 なのに。

 

 突然会社帰りのドトールに薫を呼び出し、そこにミナシロさんという知らない女性が伴っている。

 なんでも郁也は、もともと大学時代の同級生だったミナシロさんにお金を払ってセックスを何回かしたことがあり、挙げ句の果てに子どもができてしまったのだという。

 

 こんな意味不明の出来事だけでもちょっと待てと言いたくなるのだけど、このミナシロさんがまたどうにもクレイジーな女で、もう誰に何を怒っていいのかわからなくなる。

 

 クレイジーといっても、ごく普通に会社勤めをしている人で、本当に気が狂っているわけではない。とにかく無神経な人なのだ。

 

 

 この人は、許されることに慣れている人だろうな、とふと思う。

 許される要素のひとつもない話で、責められてなじられて罵倒される覚悟もありそうな様子なのに、でも最終的には許してくれるんでしょ、と思っていそう。

「わたし、子どもが嫌いなんです」

 間橋さんは、好きですか? 子ども。ミナシロさんが言う。

「産むのだってこわいし、痛いから本当は嫌だけど、堕ろすのはもっとこわい。だけど育てる気はありません。育てられない。もともと、こんなはずじゃなかったんです。子どもなんてできるはずじゃ」

 間違えちゃいました。あっけらかんとした調子で口にする。あ、無理してる、と思う。ミナシロさんの唇の右端が少し震えている。当たり前のようにひどいことを言ってのけるところに、演技の気配を感じる。

 

 こんなこと許されると思うなよ!

 と、薫は言わない。冷静ではないはずなのに冷静に、ミナシロさんを観察している。

 

 薫はミナシロさんの態度を「無理してる」としているけれど、私にはそうは見えない。

 真の図太さがなければこんなことを言えるはずはないし、言っているということは無理なんかしていない。

 

「この人も、内心怯えているのに無理をしているのだな」ということにするのは、薫の人の良さでもあるが、田舎から東京に出て来た者特有の劣等感と、子ども全般を好きだと思えない性質が絡んでいて、その書き方が本当に巧い。

 

 もしわたしが東京に生まれて、東京で育っていたら、もっといろいろ、考えないで済んだだろう。それに男だったら、人生に起こったひどいことのほとんどが、なくなる。時々、そんな風に考える。

 

 無条件に子どもが好きな人、というのが一定数いる。街を歩く子どもを見てかわいいと思い、電車やバスで隣に乗り合わせた子どもにほほえみかけ、その親の見ていないところで小さく手を振ってみせるような人が。

 自分もそういう人間だったら、楽だったろうと思う。(中略)なんというか、世間と足並みが揃えられるって楽ちんじゃないか。

 

 東京で生まれ育って、ある程度の年齢になったら結婚して子どもを持つ。

 そういう人生が普通にある人々と、そうでない人の間にある何か。

 ずっと私の中にもどうしようもなく存在する何か。

 幸せか否かではなくて、勝ち負けでもなくて、ただ、圧倒的に違う何か。

 

 

「間橋さんがエッチしないのって、なんでなんですか?」

(中略)

「なら、性行為、でもいいです。真面目な感じ出すなら。なんで、田中くんとしないんですか? 病気だからって別にできないわけじゃないんでしょう? それともやっぱり痛いんですか」

 

 デリカシー!!!!

 

 

 理不尽を理不尽と思わない別の視点が必要なのか、はたまた理不尽を理不尽として受け容れた上でうまく昇華させるのが正解なのか、今のところ怒りを持て余すことしかできない私にとっては一生解けない禅問答のようだ。

 

 

#159 メランコリア  村上龍著

 

 

 またヤザキの長い独白が始まった。

 

『エクスタシー』で、「ゴッホがなぜ自分の耳を切ったか、わかるかい?」と話しかけてきたNYのホームレス。それがヤザキだ。

 

『エクスタシー』はカタオカケイコの語りがメインだったが、『メランコリア』はほとんどがヤザキの語り。

 しかもまたページを捲っても捲っても句点が現れず、過去の話が綿々と続く形式で、もう何の話なのか、この男は狂っているのか、この話に終わりはあるのか、今どういう状況でこの長い話を聞かされているんだったか、全部どこかへ吹っ飛んでいきわけがわからなくなる。

 

 はっきり言って読みにくい。読みにくいのだけど、読まずにはいられない。

 不愉快で不可解。

 ヤザキの話を聞かずにはいられない「わたし」(小説の中の聞き手)と同じ目に遭うというわけだ。

 

 

 話としては、ヤザキがなぜホームレスになったのかというインタビューを通して見えてくる彼の過去――レイコやケイコと過ごした日々、そこで負った傷――や、インタビューをするうちにヤザキに惹かれまた巻き込まれていくわたし(ミチコ)の物語なのだけど、カナモリサナエという女をいたぶる場面が強烈に残った。

 

 ヤザキが日本でミュージカルのオーディションをした、そこへ現れたのがサナエ。

 

 

四日間のオーディションで初めはシリアスでスケベなジョークを交わして不快をごまかしていたんだが三日目の夜にもう限界が来てしまってイケニエがなくてはこの仕事は続けられないとPJは言いだしてオレも賛成だったんだがどうしてそういう残酷な結論というのはいつも正しいんだろう、カナモリサナエという中肉中背でとりあえず皮膚の薄いバレエ顔をした二十代半ばの山形出身の女が現れたんだ、(中略)山形で八歳からバレエを始めてすぐにモダンに転向という恥知らずな始まりで、十五歳の頃から地元の高校で創作ダンスを発表し東京の誰それさんからおほめの言葉を頂くってまあそういう調子だったよ、(中略)

そういう奴を前にしていろいろやり方があるんだけど幼稚なのはさらにどんどん追いつめていくっていうやつなんだ、切れた神経がくっつかないようにさらに攻撃していくわけだがそれは案外効果がないもんなんだよ、コントロールできなくなったと判断した脳は、反撃する準備を整えていて、その方法を捜しているから、こちらが攻撃を加え続けると、このカナモリサナエの場合なんかは、オレへの憎悪を発生させて切り抜けようとするんだ、(中略)とりあえずカナモリサナエのような場合には憎悪に向けて彼女が逃げ込めないようにしなきゃいけないんだ、

 

 

 下意識にある「恥」への刺激。

 表面的な、たとえば人前に出るのが恥ずかしいとか失敗をして恥ずかしいとかそういうことではなくて、意識の上では恥じていない、むしろ矜持すら感じることのある「こんな私」そのものに対する恥を引っ張り出されるようだった。

 

 言葉だけで他人の精神を崩壊することは簡単なのだという脅威と、でもなぜかその先にはとんでもない快楽があるのではないかという期待、村上龍の編み出す台詞は矛盾した思いを同時に抱かせる。

 

 

 おそらくサナエは田舎の小さなコミュニティでは綺麗だ才能があるだとちやほやされ、本人も内心その気になっていた、ところが外へ出てみればそんなものは勘違いでしかなく、まったく笑っちゃうよ、と図星をさされているのだけど、なにが悲しいって、簡単に勘違いできる人間であればあるほどその指摘にも鈍感であるのだ。

 

 私はどちらかといえば「恥の多い生涯を送って来ました。」の方に共鳴する太宰的自意識過剰なタイプではある、が、それでも格好つけて悦に入るような部分は絶対にあって、そこを暴かれてしまったような恥ずかしさ。

 

 本の感想でよくある「救われました。」と真逆にある何か。

 

 それが単なる嫌悪感ではないのは、やっぱり私の中のマゾヒズムを突いてくる絶妙な攻撃だからかもしれない。

 

 

 平凡に生きていたら、ヤザキみたいな男にこんな目に遭わされるなんてことはない。

 けれど、文字だけを使ってこちらの意思とは関係なく疑似体験としてあっさりそれを差し出してくる。恐るべし村上龍の才能に震える。

 

 

 

#158 やっぱり私は嫌われる  ビートたけし著

 

 

 私の中では「タケちゃんマンだった人」で「フライデー事件の人」でしかなかったのが、いつの間にか世界のキタノとか言われるようになり、さすが! みたいな扱いになっていることにずっと納得がいっていなかった。

 

 お笑い芸人としても、映画監督としても、俳優としても、どこがすごいのかがわからない。そして彼のすごさがわからないことが「わかってない」ことになる空気がわからない。

 すごいすごいと言う人たちは、すごさの本質はさておき「みんながすごいって言うから」すごいと言っているようにしか見えない。

 

 長い間に培った強い偏見と抵抗を持ちながらこの本を読んだせいもあってか、やっぱり好きになれなかった(その意味でこのタイトルはすごい!)

 

 

 書かれたのは平成初期。

 だから今の令和の風潮に合っていないといってしまえばそうなんだけど、どの時代だろうが根本的な男尊女卑思想は受け容れ難い。

 

 私はいき過ぎたフェミニストは好きではないし、万人がフェミニストであれとも思わない。が、にしても、だ。

 

 

「だから女は嫌われる」という章があって、ここでいう女というのは主に「女のくせに政治家になったおばさん」として土井たか子氏がやり玉として挙げられつつ、おばさん全体をこき下ろしている。

 

 政治家に限らず、社会に対してギャアギャアいうおばさんたちは、男に可愛がってもらったことがないんだね。男からやさしくしてもらえないものだから、逆に男に対して妙な形で強く出ようとする。

 

 前提として「女は黙ってろ」というのがまず間違いだと思わないのだろうか。

 そして、ギャアギャアいうその内容はともかく、容姿や男性からの扱われ方を攻撃することの的外れ具合にも気づいていない。

 

 それを言うなら逆はどうなんだ。

 偉そうにふんぞり返っている腹の出た醜いハゲのおじさんは、女性から愛されてこなかったから金と権力を使ってホステスにちやほやされ溜飲を下げているんじゃないのか。

 

 百歩譲って、女性蔑視の思想を持つことは自由だから、どう思っていようが構わない。

 ただ、このようにメディアで公言する、したくてたまらない、というのは内心女を恐れていることの裏返しなのではないかと勘繰りたくもなる。

 エディプス・コンプレックスをこじらせていると言ってもいい。

 

 どれだけ下に見ようとしたところで自分を産んだのは女(母)であり絶対的に降伏せざるを得ない事実と、男は強く女は弱いという強固な教育を受けてきた矛盾から、女にひれ伏す気持ちをひた隠しにしている。これは幼稚だし、品がない。

 いい大人が「お前の母ちゃん出ベソ」と吠えているのと同じで、エッヂの効いた毒舌ですらない。

 

 せめて、「女」「おばさん」と括って攻撃するのなら、容姿や年齢にすり替えずに、女性ならではの陥りがちな思考とか行動傾向を知的なやり方で指摘するべき。

 

 

 とはいえ、全部が全部ではなく、教育に関する章では同感できた部分もちょこちょこあった。

 

 教育もそうで、いじめを根絶しようといったって土台無理なんだよ。生徒が沢山いれば、クラス内に差別は出来るし、バカにされることだって当然ある。そういうちっちゃなことでも、本人の性格によっては、自殺するような大げさな取り方をしてしまう。

 かわいそうだけど、あの子供は精神的に弱かったというしかない。

 

 

「いじめは、なくならない」と私も『ヘヴン』(川上未映子著)の感想で断言していたので、お、いいこと言ってる! と思ったけれど、結局そこでもマスコミのことを「おばさん感覚のエセヒューマニズム」と差別的発言をしているので、全体として著者に対する印象は変わらない。

 

 

 本気でもボケだとしても笑いとは程遠いこのセンスの持ち主が、どうして芸人として名を馳せ、その他のエンターテイメントでも成功しているのか、ますますわからなくなった。

 

『やっぱり私は嫌われる』の裏には、そんなふうに言いながら本当は人気者だとわかっているという反語的な自負を含んでいるようにも見えるので言っておく。

 

 

  やっぱり、私は、あなたが嫌いです。

 

 

 

 

#157 風の便り  太宰治著

 

 

 38歳の小説家と50を越えた先輩作家の往復書簡。

 

 明らかに太宰治本人を思わせるこじらせた若輩者(木戸一郎)と、それを諫めたり突き放したり時に褒めたりする先輩(井原退蔵)のやり取りが全て手紙形式になってる。

 

 木戸は自己承認欲求の塊みたいな男で、愚痴と言い訳が多いわりには隙あらば先達に噛みつく。一方の井原は冷静な大人の対応。

 

 

 これ、どっちも実際は一人(太宰治)が書いているんだよなと思うと、小説という態をとりながら太宰が一人二役をこなす自虐劇に見えてくる。

 

 

君は作品の誠実を、人間の誠実と置き換えようとしています。作家で無くともいいから、誠実な人間でありたい。これはたいへん立派な言葉のように聞えますが、実は狡猾な醜悪な打算に満ち満ちている遁辞です。

 

「狡猾な醜悪な打算に満ち満ちている遁辞」って最上級の辛口!

 

君は、君自身の「かよわい」善良さを矢鱈に売込もうとしているようで、実にみっともない。

 

ブリっ子を見破られた時の恥ずかしさ!

 

君は、そんな自嘲の言葉で人に甘えて、君自身の怠惰と傲慢をごまかそうとしているだけです。ちょっと地味に見えながらも、君ほど自我の強い男はめったにありません。おそろしく復讐心の強い男のようにさえ見えます。

 

全部バレてる!

 

 こんなしんどい作業、よくやったもんだと呆れるくらい徹底した突っ込みを浴びせるパイセン。きびしー。

 

 

 私はこのブログで自分の過去や口に出しては言えないような黒い思惑を、いわば懺悔にも似た気持ちで書くことがある。

 

 太宰がしているのは更にその上をゆく、お前そんなふうにしおらしいこと言ってるけどまだそこには虚偽が混じってるんじゃないのか? さらけ出しているように見せかけておきながら魂胆は別のところにあるんじゃないのか? と暴露して自嘲する行為だ。

 

 私が度々引き合いに出す葉ちゃんと竹一(『人間失格』(同著者))のやり取りと同じことがずっと脳内で繰り広げられているのだとしたら、一体どうやって自己を保てばいいのよ。

 

 仮に一人二役ではなく本当に師(井伏鱒二)から言われたことがあるのだとしても、文字に起こし世に出すというのは、恥すらも作品にしたい貪欲さなのか、それとも相当なマゾヒズムなのか、あるいは皮肉を含めた反撃なのか。

 

 にしても、はじめは短い返信だった(それに対して木戸は不平不満をぐちぐちと次の手紙に綴る)ものの、井原が徐々に打ち解けていく様が見て取れるのに、嬉しがるどころか逆に遠ざけるような引きの姿勢に出るのは何。

 

 

 ここでもう一度私のことに話を戻す。

 

 先日、友人との会話で自分の中にある「謙虚さ」に触れることがあった。

 

 私が常々「知ったかぶり」をしないように気をつけていること、気をつけていてもついやってしまう時があること、やってしまった瞬間ものすごい恥ずかしさを覚えること。

 それは間違いなく謙虚な思いからではあるのだけど、謙虚さは謙虚さだけで終わらない。

 

 自分のように慎んでいない人を見ると、無性に苛立ち、攻撃性が顔を出すのだ。

 私はこうして控え目にしているのに、あなたそれやっちゃうの? あなたそれ程の人なの? と、無論直接言及はしないが、頭の中は大騒ぎ。

 

 自分は謙虚さを保つ、ただそれだけで、他人がどうであれ構わなければいい話なのに、知ったかぶりのドヤ顔に我慢ができなくなる。

 つまり私の謙虚さは100%ピュアではなく、誰かを責めるための布石にもなっている。

 

「つい知ったかぶりしてしまうことがあるんです。そういう時は本当に恥ずかしいんです。」

 

 ここまでが木戸パート。

 

「知ったかぶりしている人を馬鹿にしています。」

 

 これが井原パート。

 

君は、そんな自嘲の言葉で人に甘えて、君自身の怠惰と傲慢をごまかそうとしているだけです。

 

 ぎゃふん。

 

 

#156 悪女について  有吉佐和子著

 

 

 最近ハマっている小田切ヒロさんが紹介していた本の中の一冊。

 小田切さんは「まだ読み始めたところ」とのことで、お薦めというよりはこんなの読んでますというコメントに留められていたけれど、好きな人がどんな本を読んでいるかというのは気になるもの。

 

 しかも、タイトルがいい。悪女って、どんな悪い女が出てくるのかしら~ と、小田切さん口調で興味津々。

 で、読んでみたら、すんごいのよ~ そうよ~ とますます小田切節全開になっちゃうくらい面白かった。

 

 

 富小路公子(本名・鈴木君子)という戦後の若き女実業家が主人公なのだけど、本人は最後まで出てこない。

 というのも、この女性ははじめから死んでいるのだ。

 若くして成り上がったちょっとした有名人の死が、果たして自殺なのか他殺なのか。

 

 27人もの彼女とかかわりのある人物が取材に応える形で、それぞれの目から富小路公子について語っている。

 

 週刊誌では「悪女」と叩かれているが、実際の彼女を知る人々から見えて来る人物像はどうもそんな悪い女でもなさそうだ。

 

それにしても驚いたのは、彼女が二回も結婚してたって、彼女が死んでから週刊誌が書いたことですよ。(中略)僕は信じられんですよ、未だに。そんなとんでもない女じゃなかったんです。心の優しい、嘘のない、どちらかといえば潔癖な女だったんですから。(妻子がありながら公子と関係を持っていた沢山栄次の話)

 

週刊誌がいろいろ書いて、私は呆れたんでございますけど、あの方は、どちらかといえば金離れのいい、綺麗なお金の使い方をする方だったんですのよ。(懇意にしていたテーラー林梨江の話)

 

彼女が悪女だなんてことは絶対にありません。優しくて、涙もろくて、美しいものが好きな、夢みたいな女でした。(公子と結婚し離婚した富本寛一の話)

 

 

 確かに公子は、したたかな女ではある。計算づくの嘘もつく。二人の息子を産んだけれど結局誰の子なのかわからない。土地を転がし宝石を売りさばきいくつもの事業を展開させる才覚もある。いつしかテレビにまで出るようになれば、世間では嫉妬満載の悪評が立つのは当たり前といえば当たり前。

 

 それにしても、人が人にする評価というのは、見る側に映るほんの一面を見たいようにしか見ていない(見えていない)ことがよくわかる。

 同じ人物を語るにもこうもばらつきがあるものなのかと思うが、そもそも一人の人間にはいくつもの顔があるものだから、必然なのだろう。

 

 

 じゃあ私が突然謎の死を遂げたら、人は私をどう語るのか? 

 

 そんなことをぼんやり想像してみる。

 

 母から見れば、危なっかしい、いくつになっても目が離せない娘だろう。

 姉にとっては、おいしいとこ取りの狡い妹だと思っているかもしれない。

 父は、どうだろうか。国内外問わず連絡先すら教えない薄情な奴だと思っているのか、自分が良き父であるために良き娘だと思い込もうとしているのか、わからない。

 同じ職場にいたことのある人から見ればまあまあ使い勝手のいい下っ端だっただろうし、昔婚約破棄した相手の母親からすれば一生許せない酷い女だし、学生時代の教師にとっては扱いにくい生徒の一人に入るに違いない。

 その他友人知人においては、いつ・どこで・どうやって知り合ったかによってより幅のある印象になる気がする。

 

 

 ざっと考えただけでも、私とて悪女になり得るし、案外いい人だったということにもなる(と思いたい)。

 

 私の場合は有名人と違っていかなる人物評も世間に出回ることはないわけで、ただ想像して面白いなあ、で済む話。

 

 しかし今の時代、ちょっとでも名の知れた人は、生きているうちからあーだこーだと評価を公にさらされるのだから、たまったもんじゃない。

 

 富小路公子だって、戦後すぐだったからアナログな「噂」だけで済んでいるが、現代に生きていたらバッシングは100倍ではきかないだろう。

 

 ともあれ、叩いても埃の一つも出ないような「いい人」よりも、そうでない人の方に魅力や魔力があるのは事実。

 だからこそ、周囲は吸い寄せられ、当人はいい目も悪い目も見る。

 

 

 さて私から見た彼女はといえば、単なるあざとい女ではなく、働きながら夜学で簿記を学ぶ努力や苦労をした上での策略家というところ、先見の明と行動力、最期までブレない自己演出、どこを取っても私にはない才能と情熱の持ち主なので、「敬うべき悪女」といったところだろうか。

 

―余談―

 これ、1話30分で全27話のドラマにしたら絶対面白いと思う。

 主人公(公子)は過去の回想で出て来るとして、「まああ」が口癖で小声の一見おしとやかな女性というところや、夢見がちな台詞が多いことから考えると、三浦理恵子さんがぴったり!

 と思って調べてみたら、なんと既にドラマ化されていた。

 田中みな実って……違うだろ、それは。

 

 

 

 

#155 死の壁  養老孟司著

 

 

「死」というと、とんでもなく壮大なテーマに聞こえる。

 哲学的に語ることもできれば、スピリチュアル方面、医学的生物学的見地、宗教観、様々な切り口がある。

 

 ただ、どの角度から見ようとも、私たちヒトを含めた生物はみな生まれた時から必ず訪れる死に向かっているという一点は揺るぎない事実。

 そしてヒトだけがそのことを知っている(多分)ので、死を恐れたり願ったりあれこれこねくり回して考える。

 

 一方、日々死に近づいていることを知りながら、著者のいうように多くの人は「昨日の私と今日の私は同じ私」だと思い込んで生活している。

 一秒毎カウントダウンしていたら弊害が出るのでいちいち意識する必要はないと思うけれど、あまりに生きていることが当たり前になっているのは確か。

 

 こんなにも世界で毎日誰かが死んでいるというのに、だ。

 戦争はなくならず、ウィルスが猛威を振るい、自然災害もテロも事故もいつ起こるかわからず、誰もが明日死んでもおかしくない。

 明日も生きている確証もないくせに、頭の中にあるのは今夜何食べようとか明日も仕事か面倒臭いなとかそういうことで、平和ボケってこういうこと。

 

 

 私個人の死に関する経験としては祖父母と犬の死ぐらいで、いずれも漠然と「自分よりは先に逝く者」という前提があったので悲しみは大なり小なりあっても「まさか!」という驚きは皆無だった。

 

 しかし母親の死を考えると、そうはいかない。

 前提に従えばいつかその日が来るわけだが、それが怖くてたまらない。

 自分の死よりも、母を失った後に生きることの方が怖い。

 じゃあ自分が先に死ねばいいのだけど、それはそれで母にとっては「子に先に死なれる」ことなので、得策ではない。

 このままだと母が死んだ直後に後追いをしかねないくらい、怖い。

 

 

 

 いずれにしても、そういう周囲の死を乗り越えた者が生き延びる。それが人生ということなのだと思います。そして身近な死というのは忌むべきことではなく、人生のなかで経験せざるをえないことなのです。それがあるほうが、人間、さまざまなことについて、もちろん自分についての理解も深まるのです。

 だから死について考えることは大切なのです。

 

 幼い頃にお父様を亡くした著者は、無意識に父親の死から影響を受け、長い時間をかけて受け止めたという。

 

 私にはまだ母の死そのものも、その時の自分も想像できないし、したくない。

 

しかし、長い目で見て、その死の経験を生かす生き方をすればよいのではないかと思うのです。

 それが生き残った者の課題です。そして生き残った者の考え方一つで、そういう暮らしは出来るはずなのです。

 

 この後、死を「人事」に喩え、良かったか悪かったかを判断するのは自分次第だと説きつつ、

 

 死というのは人事よりもはるかに理不尽にやってきます。問題は、そのときに、それを奇貨として受け止めるかどうかではないでしょうか。

 

 とある。

 

 私の場合はまだ起こってもいないし、すぐに起こりそうもないことを恐れているに過ぎないのだけど、それにしても奇貨として受け止めるなんて全然準備ができていない。

 

 多分事前に備えることではなくて(備えることなどできない)、そうなってから後、時間とともに自分で受け止めていくしかないのだろうなあと、漠然と思いながらもやっぱり考えたくはないことである。

 

 

#154 諦めない女  桂望実著

 

 

 母親はこうあるべきという呪縛の強さというのは、他の小説を読んでいても感じることがあるし、実社会でもまだまだこの種の幻想が蔓延していると思うことがよくある。

 

『坂の途中の家』(角田光代著)の里沙子も、「母親なんだから」というプレッシャーに苦しんでいた。

 

 本書の母親(京子)は、里沙子とは違う形――母親として娘を「諦めない」という方向――で突っ走り、けれど同じように苦しそうだ。

 

「先生までそんな……あの子は生きています。現実から目を逸らしているんじゃありません。逃げていません。あの子は生きているんです。我が子ですから、もし死んでいたら母親の私にはわかります。毎朝私はとても気持ち良く起きるんです。娘が今日帰って来るように思うからです。どうして皆は私に娘を諦めるよう諭すんですか。諦めませんよ。母親ですから。それに、あの子は確かに生きているんですから」

 

 スーパーの駐車場で、ほんの少し一人になった間に忽然と姿を消した娘を、いつか帰ってくると信じて待つのは母親だけでなく家族であれば当然の思いではある。

 

 が、この京子の執念たるや、何年経っても一向に娘が見つかる兆しもなく、誘拐されたのだとしても犯人が捕まるわけでもない状況で、娘を待つこと以外のすべてを投げ捨て、とにかく「諦めない」。

 そして、同じようにならない夫や姉らを「諦めた」人=愛情の薄い人として蔑む。

 

 

 京子の心理はストーカーのそれと同じで、こんなに愛しているのは自分だけだという矜持で成り立っている。

 その盾となっているのが「母親なんだから」という常套句。

 

 母親なら当たり前という観念は、たぶん、程度の差こそあれどの母親にもあるのだとは思う。

 けれど、あるレベルを超えたら要注意だ。

 本当は当たり前なんてことは一個もないのだから。

 

 

 そう思い込ませているのは当事者の周りの人々や社会全体でもあるわけだから、責任は本人だけではないのも事実。

 逆にちょっとでも愛情が薄いようなことがあればやれネグレクトだとか、母親として失格だと糾弾されてしまう、辛い立場だと思う。

 

 

 先日も書いた不倫した某女優も、最初のスクープの時に「母親なんですからそんなことしません」と言ったとか言わないとか騒がれていたけれど、母親というワードを盾にするのは本当にやめた方がいい。

 母親だって、色々やらかすこともある。母親ならやるはずがないと、本人が言うのも周りが思うのも、どちらもおかしい。

 

 

 

どれだけ言葉を尽くしても、母は自分の愛情が間違っていると認めない。認めないから謝らない。その自信はどこからくるのか、ずっと不思議だった。子育てが下手であるとか、母親として未熟であるのを認めるのはそんなに大変なのか……。それは本当に愛情なのかと、成長するにつれて私は疑うようになった。母の自己満足の犠牲にはならないと心を決めるまでには、途方もない時間が掛かってしまったのよね。私は母が嫌いで、でもそう思う度、今でも自分の心が痛むことにムカついている。

 

 これは京子のことではなく、京子に取材をしていたライターが自身の母との関係を思い起こしているところ。

 

 私にとって、母親ではなく、父親との関係がまさにこれ。

 

 父は私がまだ10歳になるかならないかの頃から、「お前のために」を連呼していて、それを愛情だと信じて疑わず、だから間違っているとは絶対に認めなかった。今も、認めていない。謝らない。

 

 私の場合は初期から「これは愛情ではない。自己満足だ。この人は嘘つきだ。」と思っていた(言語化できていなくても確かな感覚としてあった)ので、嫌いになることもそれを自覚することも時間は掛からなかった。

 

 が、驚くことに当の本人はこんなに長い間娘(私)に忌み嫌われ、避けられ、愛情の交流がない状態なのに、まだ自信を持っている。

 

 そういう人とは話しても無駄だ。

 けれど、そういう人に限って話し合おうとけしかけてくる。

 結局偽の愛情の押し売りだったり自己主張の強要だったりするから、乗っかってもメンタルをすり減らすのはこちらだけなので、一切応じない。

 

 もはや不思議という次元を通り越して、相手をなんらかの人格障害だと思うことにしたことで、私の中でこの問題は一旦決着している。

 

 

愛しているから執着する。

執着するのは愛ではない。

 

 この大きな矛盾を孕む愛というのは、親子だけでなくどの関係性においても、悩ましい。